「刺青の事」
25歳の頃 刺青 の絵を描いた。
私は当時、伊万里焼が好きで収集などもしていたが、好みの赤絵の壺などは
モデルとしても使っていたようだ。
そんな頃、県展だったと思うが、小松崎邦雄先生の「花の衣」という
絵を拝見して、とても感動した。
セルリアンブルーの空の下、金髪の西洋人の女性が背中一面の
総刺青で、こちらを振り向いて立っている像である。
その時、私も描いてみたいと思った。
白地の壺の上に絵付けをすれば伊万里焼だが、
”美しい裸体に絵付けをすれば刺青になる”と
なぜだかその時思ったのです。
それから、その年の個展に向けて、何枚か私なりの
刺青の絵を完成させたのです。
絵でしか表現のできない世界として、本当の刺青の画題も
私なりに理解して、作品として完成させていく作業は
とても楽しく、やりがいのあるものに思えたのです。
その年の個展に、思いもかけず小松崎邦雄先生が
見に来てくださり、励まして頂いた記憶が今でも鮮明に残っている。
これが小松崎先生との最初で最後の出会いでした。
小澤清人
「シンデレラの事」
先日、日比谷公園内にある 日比谷図書文化館に行き
『シンデレラの世界展』というのを見に行ってきた。
内容は昔のシンデレラの絵本のコレクションで、19世紀中頃の
絵本から19世紀末から20世紀中頃までのアメリカでブームになった
シンデレラの絵本が陳列されていた。
時代の移り変わりによって、シンデレラも時代を反映した
表現になっているのが面白かった。
そういえば 私も昔”シンデレラ”を題材にして絵を描き、
我が会に出品した事がある。もう40年前になるが、
会の趣旨に合わせ、物語性の強い私なりの”シンデレラ”を
描き始めたのである。
前年に会の趣旨に合わず作品を落とされているので、
私としてはとても真剣にならざるをえなかった記憶がある。
色はテールベルト、サップグリーンなどの深緑色のモノトーンで、
遠景左上に城があり、それに向かって、馬車、シンデレラ、魔法使い、
小人、ハリネズミなどが近景に描いてある。
不思議な事に今その絵を見ると、その頃の自分の物の考え方や、
生き方がとてもリアルに思い出されてくるのです。
絵描きにとって作品は、自分の日記なのかもしません。
小澤清人
「 薔 薇 の 事 」
朝起きて、久しぶりにカーテンを開け庭に面したドアを開けると
アッと思った。
冬の間、一度もドアを開けてなく、外を見ることもなかったのである。
ピンク色の薔薇が一輪咲いていて、少しの風にゆらゆらと
揺れていたのです。
最初に薔薇の花を絵にしたのは、たしか赤い薔薇だった様な気がする。
猫の絵と同様にはじめに描いた薔薇の絵を今見ると、見られたものではないというような気がする。
薔薇の花を描く時、必ず不安と背中合わせなのである。
花の中では最も複雑で、すぐに形を変えてしまう・・・
今、とても良い形であったのに、次の瞬間には違う良い形になって
しまうのです。
描き上がるまでに、色々な良い形の薔薇の花が一枚のキャンバスの中に
埋め込まれていくようです。
ですからうまく描けた薔薇の花の絵は、キャンバスの上で常に
動いているのです。
薔薇の一瞬を描いて、薔薇のすべてを表現する事はとても無理な事ではあるが、薔薇が持っている香りや雰囲気が、少しでも表現できればと、
この季節になると、いつも思い悩み考えるのです。
小澤清人
「桜 の 事」
今日、花見の散歩に出た。
絵は何となく一段落したので、
その気になり家を出て、100m
ほど下りて行くと小さな川に出る。
その両側に桜の木が植えられて
いて、今まさに満開の様である。
マンションに引っ越ししてから
一度、母を連れて散歩したことが
ある。
母はあまり外へ出たがらないので連れ出した。帰って来るととても疲れた様だったが、「満開できれいだったねぇ」と喜んでいた。
2年前の事である。
行きがけにコンビニでコーヒーを買い、飲みながら川沿いをゆっくりと歩いた。少々風が強いが、冬の寒さはなく、どんよりと雲が厚く、はらはらと花びらが舞っている。
花見時の大宮公園は、花見客でごったがえしていて、私としては、あまり好きではない。
しかしこの川沿いの桜並木は
川面に枝が付きそうなくらい垂れ下がり、いかにも風情がある。
また桜の老木に咲く花はこれまた雰囲気があり素晴らしいのである。
あと何回、こんな気持ちに浸れるのかと思うと人生の儚さを感じてしまします。
いつも桜の花の満開の頃、明るく華やいでいるのだが、なぜか?私は少し
さみしい気持ちになるのです。
明日からは、我が会の春季展が
始まります。
小澤清人
「オールドタイムスの事」
個展の案内状をもらったので早稲田まで行くことにした。
王子から今では懐かしさを感じる都電荒川線に乗る事にした。
子供の頃のチンチン電車である。
学生時代、筆を買いに鬼子母神に行って以来の事であるから、
45年ぶりの乗車である。
お彼岸の事で車内はとても混み合って、気をつかってしまい、
これがガラガラであれば風情を楽しめるのではないかと思う。
早稲田に到着し、ぶらぶらと10分程行くと個展会場のある、
他の建物とは異なった、まるでアントニオ・ガウディの集合住宅を
思わせる奇怪なビルについた。
私は昔(今でも)ガウディがとても好きで将来は”カサ・ミラ”に
住みたいと思っていた。これはどうも実現できそうもない。
この個展会場は7~8年前に1度来た事がある。
1階にアンティーク時計の店があり、今回もまだあるかと
期待していたのです。
個展を見て、仲間の画家からギャラリーのオーナーを紹介され、
話ているうちに何と、ギャラリーのオーナーは隣のアンティーク時計の店”オールドタイムス”のオーナーでもあったのです。
私は出がけに、コレクションのリストウォッチを2本程持ってきて
いました。 革ベルトのものはひと夏すると革ベルトが駄目になって
しまうのです。しかも昔のスタイルの物は傷みやすく、また
今の時代、普通の時計屋にはないのです。
ギャラリーのオーナーであり、オールドタイムスのオーナーでもある
御主人と、話が合わないわけがありません。
(私の一方的判断ではあるが・・・。)
私のコレクションがトラブルをおこした時には御主人にお世話に
なれると確信し、又、約束もしました。
私が持ってきた2本のリストウォッチのベルトも完璧に直してもらい、久しぶりに私の道楽の心を刺激され、同胞と久しぶりに会えた様な
不思議な気分がしたのです。
小澤清人
「花粉症の事」
いつの日からか、花粉症に悩まされるようになった。
今年も予防薬をもらっているのに飲み忘れて、ついに花粉症になってしまった。
人間は”のど元過ぎると熱さ忘れる”と云う様に(私は特に)懲りずに忘れてしまう。
少しずつ症状が重くなるにつれて去年の事を思い出すのである。
気が付くのが遅いのです。
花粉症が出ると絵を描くのにも色々と支障をきたしてきて、私の場合は薔薇が咲く頃まで延々と苦しい日々が続くのである。
春のうららかな日々が続き、ふと香ってくる沈丁花の甘い香りに酔いしれた若かれし頃を思い出すと今、大キライなマスクをしなければならず、しかも酷い時には鼻栓までもしなければならない、地獄の様な日々が続き、情けなくてなりません。
外に出るのもおっくうになり・・・第一おしゃれをするのにマスクは全然合わないのです、マスクをするだけで台無しになってしまいます。
春のうららの夕間暮れ・・・花を見にぶらりと散歩に出ようと、
伊達の薄着に薄手のコートを羽織り、町を闊歩したあの時代はもう
絶対にかえって来ないのである。
小澤清人
「東郷青児先生の事」
私は、20歳の時に二科展で初入選となった。
それから4年間、二科展に出品する事となったが、2回目、3回目と
展示場所がどんどんと悪くなり、4回目には旧美術館の地下彫刻室の
しかも4段掛けの最上段となってしまった。
当時の私の絵は、表面にニスが塗られたようにツヤのあるものだったので、どこからどう見ても光ってしまいどうにもならないのである。
私はガックリと落ち込んでしまい、恐れもなく当時二科会会長であられた東郷先生に手紙を書いてしまいました。
どんな内容であったかは今は忘れてしまったが、気持ちとしては
やぶれかぶれだったような気がする。
二科展が終って間もなくの頃だったと思う。
その後、その年の暮れに東郷先生より一枚のハガキを頂いた。
何とも云えないエネルギーがわいてきて、
”俺は絵描きになるんだ”と自分に云い聞かせた様な気がする。
今、東郷先生の気持ちが手にとる様にわかるような気もするのです。
小澤清人
「歩く事」
昨日、友人の展覧会を見に初台に行った。
帰り、初台の駅まで来た時にふと、歩いてみる事にした。
”新宿駅はこっちの方だな・・・?”と思い歩き始めると途中
右の方に「西参道」の表示があり、昔、完成した版画を納めに通った
画商さんのビルを思い出した。
左の方へ歩いて行くと都庁の建物に出て、右折して新宿駅に向かった。
駅周辺に近付くと、かなりがさがさしていて、
色んな店が立ち並んでいる。 普段あまり歩かないせいか、
少し体が汗ばんできた。
ほどなく新宿駅南口に到着した。
たまには歩くのも良いようだ。
位置関係を把握できるのである。
以前、ロンドンでも、パリでも目的地に行くのに地下鉄ばかり
乗ってしまった。
(時間の節約にもなり便利だったのだが)そのため
街の景観とか、有様が見られず町と町との位置関係も認識できなかったのである。後で考えるとこれはとても後悔が残るのです。
最近「ヨーロッパの街歩き」なるテレビの番組を見ると歩く良さが
よくわかる。
これからは都会の一駅ぐらいは空気を味わいながら
少し歩く事が良い様な気がする。
小澤清人
「白猫の事」
まだ高鼻にいた頃、毎晩友人の酒場に飲みに通っていた。
ある日、家を出ると小さな白い猫が私に近づいて来て
”ニャー”と鳴いた。猫はとてもきれいで、鈴が付いた赤い首輪を
していた。
前にも書いたが・・・。
私は小さい頃3~4回猫を飼った事があった。
別れはいつも悲しく、ある時は交通事故に遭い、ある時はノミ取り粉を
舐めた為に一日中苦しんで死んでしまった。
もう猫は飼わないと思った。
寅年の家には猫は居つかないと人に云われた。
私は歩き出したが白い猫はすり寄って来た。思わず抱き上げアトリエに入れて酒場に向かった。その日は酒場から帰るのがとても楽しみになった。
帰ってみると白い猫はキャンバスに爪を立てていた。
やはり飼う事はできないと思い、白い猫は外に出した。
2~3日たった夜、飲みに行こうと酒場に向かって歩いていると、
路地からあの白い猫が”ニャー”とこちらへ近づいてきた。
何とも親しげに可愛らしく・・・。
私は思わず早足で酒場に向かった。
以来、本物の猫とは縁がないが、いまだに猫は描いている。
自分のイメージの中にある猫である。
小澤清人
「額装する」
2015年10月16日 11時・・・「ドリアングレイの肖像」額装のため
雨の中、神田 ”弘雅堂”に向けて出発した。
私は雨男である。
展覧会の搬入・搬出に関してはほとんど晴れた日はない。
車に絵を運び、後部座席に積んだ5枚の10号の絵を見ると、
表面が雨で濡れている。
昨日まで筆を入れ、油絵具も生乾きで
状況としては最悪なのである。
しかし、神田に到着するまでの約2時間で、エアコンのおかげもあり、
絵はほとんど乾いていました。
額はだいぶ以前に完成していて、絵の完成を待つばかりになっており、
弘雅堂さんにはとても迷惑をかけ今日に至っているのです。
到着すると、若旦那と親方の手際良い作業で(私も含めて)
作業が進み、私の今までの心配は嘘の様に消えてゆきました。
ホッとした様な、又 気の抜けた様な・・・。
何はともあれ、40年間の”思い”を額縁の中に閉じ込めることができたのである。
小澤清人
「ドリアングレイの事」
20才の頃、父親にオスカーワイルドの長編小説
「ドリアングレイの肖像」と云う本を読むと良いと言われた。
早速読んでみると、とても感動してドリアンに憧れをもったようであった。今日までに4回ほど読み、30代、40代、50代と・・・。
不思議なもので、時代により感じ方が異なり憧れるものも変わってくる様である。
最初に読んで、25才の時絵にしてみようと描いてみた。
10号5枚の絵で、1枚目が美しい青年像であり、2枚目、3枚目、
4枚目と徐々に醜く変貌してゆき、最後にはバケモノのようになるのである。
2年程前、引越しの時この絵が出て来たので見ると何と
”意余って力足らず”とても見られたものではない。
引っ越したアトリエ(倉庫)でその上から今の自分を描き込んで、
今日に至っている。
なかなか手強いが、自分としてはおもしろく、25才の時に描いた上に40年経った今の自分を重ねてみる。
それぞれ5枚の絵にはサインの下に1975、1985、1995、2005、2015と記してある。
本年度2015年、第41回現代童画展に出品してみようと思う。
「ドリアングレイの事」は去年も書いたが、思いつくまま今回も書いてみたが同じ様になってしまった。
考え様によっては、長期に亘っての私の思い入れ?がとても
強いように感じます。
小澤清人
「ドリアングレイの肖像」 (5枚連作の1枚・1975)
©小澤清人
「長靴の事」
25才の頃、桜田精一先生が企画したスペインを巡る、フラメンコを
見る旅に参加したことがある。
ギリシャからトルコのイスタンブールに渡り、いよいよスペインの
マドリードに入った。
スペインは革製品が手作りで良いので町で長靴を買った。
かなりしっかりできたもので、私の足にもピッタリと合い気に入った。
旅の間、ずっとその長靴をはいていたが、日毎に履き良くなるのである
私の足に段々と馴染み、初めは一人では脱ぐのに悪戦苦闘したが、
旅が終る頃には、私の体の一部のように馴染んだのです。
その後、30年近くその長靴を履き、その上気に入っているものだから
絵のモデルにもなってもらっている。
しかし、最近引越しをして気が付いてみると、
どこにも見当たらないのです。
どこへ仕舞い込んだのやら・・・。
思い出してみると、その長靴をマドリードで買い求めた翌日、
街をぶらぶらと歩いていると、靴屋のショーウィンドウに
私の昨日買った長靴とは違うとても素敵なワインレッドの
細みの長靴が飾ってあった。
その日は日曜日で店は閉まっていて、翌日はトレドに移動するため、
その長靴は手に入れることができずに諦めました。
それにしても、
私の長靴はどこにあるのでしょう・・・?
小澤清人
「長靴をはいた猫」 P6号 絹本 油彩
「市松人形の事」
川越の骨董市で、大きい市松人形を買った。
30年程前、父親の仕事の手伝いでオークションに参加していた。
その時に大正時代の大きな市松人形が競りに出たのである。
私はいっぺんでその人形の顔に魅せられ、運良くライバルも現れず、
私の手に落ちたのです。
それが私の人形道楽の始まりだった様です。
何しろ顔がとても気に入ったもので、他のところは気にせずに
家に持って帰りました。
後で見てみると、体はボロボロで粗末な着物を着ており、体は私が修理してやり、着物は母に頼み作ってもらいました。
古い布で帯は紅裏で、着物は私好みの羽二重の布で、羽織はこれも
私好みの呂で。
着せてみると増々魅力的な人形に生まれ変わりました。
それから何枚もとなく、私のモデルになり今に至っています。
今回、絹本の6号に描いており、やはり枚数を描いているせいか、
より真実に近づけた様な気がします。
あるひとつの見方ではありますが・・・。
小澤清人
「赤い実の事」
私は”赤い実”が好きだ。
3才の頃、父母と共に牛浜の大伯母の所にお世話になったことがある。
その時、庭にあるグミの実を採り、とても感動したのが始まりだと思う
。食べたような気もあるが、味は覚えていない。
40年間住み慣れた高鼻町の家の玄関わきに、ピラカンサスの木が植えられていた。春には小さな白い可愛らしい花を付け、秋になると赤い実がたわわになった。赤い実は綺麗だがどうやら不味いらしく、鳥もそっぽを向いていたようだ。
でも、私は何枚かの絵に描いてみた。また、額縁の装飾にも描いている。
私にとって赤い実は縁があるようです。
6月末、スグリの可愛い実の枝を頂いた。
早速、絹本をパネル張りしたP6号の絵にしてみた。
また、先日、我が会の中村景児氏から個展の時に譲ってもらった
カラスの置物にそのスグリの実を添えて小品に描いてみた。
”赤い実”は私にとってとても良いモチーフになるのです。
小澤清人
アナベルの事
おととし、引越したマンションの庭にアナベルを植えた。
以前の住いの庭には、
やはり7~8年の間アナベルを植えていたが、
引越しする前年、なんとアナベルは先祖返りして普通のアジサイになってしまった。
植物学者に云わせると、そんな事は絶対にありえないと云うが、
ありえない事が起こるのが人生ではないか?
アジサイになる先年、我が家のアナベルは、形はアナベルでありながら色は何とも彩やかな、セルリアンブルーとなった。
純白に咲くアナベルにはまったくありえない事なのである。
その年、私は「青いアナベル」と題した花の絵を一枚描き上げた。
今年も我がマンションの庭にアナベルが咲き誇っている。
早く描かなければ・・・。
小澤清人
文鎮の事
1820年頃、ロシアの鉄で作られたフランス製の文鎮である
40年以上前、南青山の骨董通りにある店で買い求めた物で、
当時、画学生であった私にはとても高額な買い物でした。
その店で私が買える品物は他に、アールヌーボーのボタンと
アールヌーボーのコンポートがあった。
その日は珍しく父と一緒で、彼が云うには「お前、高い買い物なのでこの文鎮にしなさい」と云った。これは素材もいいし出来が良いので飽きないのだそうである。
今になって、父の云った事は真実の様な気がする。
彼は金属でできたものが好きで、それは父親(私の祖父)が鍛冶屋職人であり、器用な発明家でもあった影響の様である。
父は若い頃から刀剣の趣味があり、あげくは私が生れた時、
私の名前をその時コレクションしていた刀の刀鍛冶の名前、
豊前守藤原清人(ぶぜんのかみふじわらのきよんど)
の”きよんど”を付けられたのです。
40年以上私のアトリエにあるこの文鎮は何枚かの絵のモデルになった
今回は、絹本に油彩で描いてみたが、父が云っていた通り、
いまだにこのモデルは飽きがこない。
小澤清人
ステッキの事
私は10本程のステッキを持っている。
私のコレクションである。
私にとって何の役にも立たないステッキに惹かれるのは・・・。
イギリスでは日本と異なって、杖でなくステッキなのである。
ステッキは地に突く物ではない。紳士の装飾品であり、ステイタスでもあると思う。
紳士は競い合って美的なものを職人に作らせ、彼ら(紳士たち)は
無言の自己顕示をしたのだと思う。
①象牙の細面の犬がステッキヘッドになっているもの。
目はガラスの文鎮と云われているものがはめてあり、とても良くできている
25年前、人形の旅に1ヶ月程行った時、帰りにパリの傘屋で求めた物で、
この年父が舌癌になり手術をしたので
気の毒に思い、お土産に買って帰ったのである。父は実に喜び、毎日散歩にそのステッキを持ち歩いたが、私が一々「落とすなよ!」「倒すと牙が割れるから気を付けて持った方が良い」
などと会うたびに云っていたので、
そのうち「お前にこれ返すよ」と云われた。
私もこの犬のステッキがとても気に入っていたので、返してもらい
代わりにロシアの鉄でできたフランス製の文鎮を父に渡した記憶がある
・・・今、犬のステッキも文鎮も私の手元にある。
②フレンチヌーボーのステッキは、
たしかロンドンのポートベローの店で見つけた。
店の前に何本ものステッキが無造作に並べてある、良い物もとんでもないまがい物も一緒くたに置いてある。これでは良い物も悪く見えてしまう。
そこに紛れて置かれたこのステッキは
手に取ってみると、典型的なフレンチヌーボーである。銀製だが後のコピーにも見える。
レプリカでも良い物は良いのだと思い手に入れたのである。
③もう一つの犬のステッキは銀製であり、目にはジルコンが入っている
ロンドンのどこの市で見つけたのかは忘れてしまった。もしかすると、ロンドンの骨董屋だったかもしれない。
ボクサーか、ブルドッグか、ボストンテリアか、フレンチブルドッグか、私好みの顔で、デフォルメされたところが何ともユーモラスで、思わず手を出してしまったのです。
④これは仕込みになっている、珍しいステッキである
組み立てると、なんとビリヤードのキューに変身する物で、ステッキとしてはあまり全体のシルエットが美しくないが、これも致し方ない。
他界した親父に云わせると、さる大物政治家が道楽で職人に作らせた物だそうである。
⑤一見細身で女性持ちと思われれる
これはステッキヘッドが球を潰した様な、何とも云えず可愛らしい雰囲気でヘッドの球をひねると、中に口紅が
入るようになっていて、球のフタの
底には鏡が仕込まれている。
何ともしゃれた逸品である。
⑥兎のステッキは不思議とロンドンでしかお目にかからなかった。
パリのリュイドバック近くの昔からある(今はない)有名な傘屋には、この兎のステッキヘッドの付いた傘が売られている。不思議とパリでは兎のステッキは一つもないのである
なぜかな~?。ロンドンでは行く度に私は兎ステッキを1本ずつ買ったものです。
なぜかこの樹脂でできた野兎のステッキが私にとってとても素敵なのです。
⑦池袋駅より目白方面にちょっと行ったところに骨董会館のような所があった。
その中にマダム・ヨシと名のる女性の商う店があり、彼女の娘がアメリカに嫁いでいる事もあり、年に何度か仕入れを兼ねて行くらしい。
彼女の店で完品のアメリカンドールを買って以来、行ってみるとこのイギリス世紀末風デザインのステッキが置いてあった。いっぺんに気に入ってしまい、値段も安かったので買ってしまった。しかし、純銀製ではなく、銅に
銀メッキなので、長く持ち歩いているとどうも金属の臭いが手についてしまう様である。
しかし、小柄な日本人には使い勝手が良い様で、以前、父が散歩の時によく使用していた様である。
⑧私の父がいつも使っていたシンプルな銀製の柄の付いた黒檀のステッキである。
やや大ぶりで重いがしっかりした良い物である。たぶん日本製だと思う。
父も気に入っていつも愛用していた。
散歩の好きだった父が暇があるとこれを片手に着流しでぶらぶら歩いているのをよく見かけたものである。
小澤清人
西洋人形(黒い帽子)の事
去年の終わりから、自宅アトリエでコツコツと”BRU Jun No10”
を描いている。
この人形は、わたしのところへ来てから何枚も描いているのです。
私にとって良い人形なので、描き易いのかもしれないが、相性が良いのだと思う。
30年程前、人形を探す目的の旅に行く時に、パジコの木村進氏に
「人形を探しに行くのなら私の宝物をお見せしますよ」と云って
当時、六本木の俳優座の前の西洋骨董店”we”の中で見たのが
初めての出会いである。
その時は漠然と”これがBRUか・・・”と思いました。
私はそれから毎年、人形を探しにロンドン・パリ・ドイツ と
旅をしました。
何回もの旅の中で、徐々にあのBRUの様な人形を手に入れるのは、
今は不可能であると云う事を知りました。
それから何年か後に銀座で開催される西洋骨董のオークションで、
木村進氏からあの日”We”で見せて頂いたBRUと再会でき、
感動したものです。
今その人形を絹本で描き、麻のキャンバスで描き、私なりに色々と
楽しんでいるのです。
”思い入れ”とは不思議なもので、一方通行ではあるが様々な
新しい発見があるようです。
この”BRU Jun No10”との深い縁を感じる今日この頃です。
小澤清人
絹本 絹本
麻キャンバス
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絵の事
絵は2次元の表現である。
この頃、キャンバスに向かって書き始める時、モデルをあらゆる方向
から見る様です。
絵はある一点から見たモデルをそのまま表現するのであるが、どっこい見えない裏側も表現できなければ、本当の存在感は表現できない様で
ある。
立体は物として、しっかりと3次元の中に存在しているので問題はないが、絵は2次元の平面の中に存在感を出さなければ全く”良い絵”は
できないのです。
しかも、絵具という材料で、キャンバスに空間と物とを描き分けなければなりません。これが絵を描く醍醐味かもしれません。
私は人形好きでよく人形を描きます。又、人形ならなんでも良いと云うのではなく、ごく限られたもので、私が感動する人形をよく見なければなりません。
長い間観察をするのですが、未だに絶対的なものはつかめません。
どんなモチーフでもこれは同じ様に時間がかかるのだと思います。
ただ、今云える事は、どんなものを描いてもその”匂い”を描ければ良いのだと思います。
こんな事を思いながら、今も”西洋人形”を描いているのです。
小澤清人
”絵画とは?”の事
今年は、本展が終了してからノラリクラリと日が経ってしまい、
今日は大晦日である。
あと3時間程で今年も終わります。
加藤豊氏の協力で小さなエンゼルの立体を創作した事で、だいぶ
絵に向かう時の何かが変化した様に思う。
一つには、形をとる時の輪郭線を描くのに、とても慎重になった様だ。
時間がかかる・・・なかなか決まらない。当然なのかもしれない。
今まで長い間、それに気付かなかったのがおかしいような気がする。
絵画とは、立体を表面に表現するもので、実物をそれらしく描く事である。実物の”匂い”や”雰囲気”までも表現しなければならない、かといって写真の様なリアリティとは違っていると思う。
その様な事を考えていると、中々絵は出来上がらないようです。
来年はこの様な思いから始まる様である。
まず、自分の創った小さなエンゼルの立体から絵にしてみようと思う。
2014年12月31日記 小澤清人
第40回記念 本展の事
昨日、無事本展を終る事ができた。
搬入から搬出まで、約2週間の長丁場である。
今年は昨年に続き、立体作家の協力を得て我が会のメンバーからも、
何人かが立体作品に挑戦致しました。
記念展と云う事もありメンバーもちょっと力が入っていた様である。
私と云えば、セッカチで、来年の事を無理に考えようとするのですが
全く真っ白で何も考えられないのです。
今、この原稿を書いていても頭はフワフワしているだけでボーっと
しているのです。
ただ、美術団体と云うのは一人の力ではどうにもならなく、みんなの
協力で一致団結していく事に他ならないと強く感じ、また
全員がある意味での共通の方向を目指して努力し歩んでいくのだと
思います。
その意味では、先人から受け継いで40年経った今、これからが本当の第一歩ではないかと感じております。
仲間同士それぞれが仲良く支え合って、これからの現代童画会を
発展させていける様に願っております。
小澤清人
彫刻家の事
縁あって、友人の彫刻家に弟子入りすることになった。
4~5日の特別訓練である。
我が会が昨年より立体作品の招待作家として、作品の出品依頼をしているのです。
30年前にも、私の道楽で人形作りに骨を折ってもらった経験があるので、今回もおんぶに抱っこの甘え様である。
彫刻家の工房で、粘土をこねながら部屋一面に置かれた作品を眺めていると、流しの隅に二つの小さな首像が置かれているのに気が付き、妙に惹きつけられたのである。
ひとつはテラコッタの少女作品で、もうひとつはブロンズにされた少女の作品であった。 聞いてみると、テラコッタの方は少女時代の奥方で、ブロンズの方は少女時代の娘さんとの事だった。
2点とも彫刻家の強烈な意志(存在感)があり、彼の自画像である事を強く感じさせる見事な作品なのである。
小澤清人
ドリアングレイの事
私が20才の頃、父に 「若い頃オスカーワイルドの”ドリアングレイの肖像”という小説にとても感動した」 と云われた。
読んでみるとはまってしまい、とても影響を受けたようだ。
2~3度読み返し、25才の時、絵にしてみようと描き始めた。
10号5枚の絵で、一枚づつドリアンが年をとると共に絵が醜悪に変容していくものである。
引っ越しの際、改めて見てみると、とても見られたものではなく”意余って力足らず”の感であった。
今、私の若い時の思いに重ねて、今の自分の思いをその上に表現してみようと描き始めた。
若い頃、鴨居 玲にとても惹かれ、彼の書いた文章の中に、
「私は作品を中途のまま長い間裏返しておいて、10年たってみて一気に完成させるのです」
というのを思い出した。これは長い時間をおく事により、時間差が絵の”奥行き”につながるのではないかと思う。
目に見えない時間の流れが絵の中に新しい発見をさせてくれるのではないか?などと今思うのです。
とりあえず明日も”ドリアングレイの肖像”に新しい発見を見つける為に、油絵の具を塗り込みに、七里の倉庫へ行くつもりです。
小澤清人
西洋人形の事
5月の初め、Neuf展に出品した「西洋人形」の
12号の絵を見てくれた、ある有名な音楽家の奥方が
「清人さん、この絵はいいわね」
と云ってくれた。
私としては、物の良し悪しのわかる彼女に褒められ、とても嬉しくなったのである。しかも額とのトータルバランスを褒められ、私にとっては”殺し文句”なのだ。
この絵もひと月程前出してみると額負けしている状態で早速、絵具を加筆して直し始め、自分で満足いくまで筆を進めた
結果、今の自分がこれ以上は無理だろうというところまで追求できたので、今回出品してみたのである。
今の私の生き方を、丸ごと褒められた様な気がして奥方にとても感謝しているのです。
早苗さん、どうもありがとうございます。
小澤清人
倉庫の事 3
今日もマンションではうろうろとするばかりで、am11:00には車に乗って七里の倉庫に向かっている。
1週間ばかり毎日、倉庫に通っているのである。
オムコにローソンがあるので、すべて生活には事欠かないのです。 倉庫に到着するとまず、ローソンでコーヒーを買い求めて、軽く食事のためとおにぎりなども買い、気になっている昔の絵を出してみる。
仕事にかかってみると意外とスムーズにその中に入り込める。30年の時間差など全く気にならず、筆が運ぶのである。 私にとっては、30年の時間差などは昨日の事の様なのである。 あまり進歩していないと云えばそうであるが、自分の人生としては同じ人間の事である。 不思議と昔のキャンバスにのせた思いは描いているとリアルに思い出してくるものである。 その上に今の自分を描いていく、とても素晴らしい事の様に思え、筆が進んでいく。
七里の倉庫に通う事も満更ではないようである。
小澤清人
倉庫の事 2
今日も、朝起きると部屋の中をウロウロとし始める。
どうにもならない。
堀の内の住まいに移ってから半月程経つが、慣れないのである。
以前はどうやって描いていたのだろうか?
思い出してみると、小さな3軒の家を行ったり来たりして描いていた様な気がする。それが1軒になったのだから、行ったり来たりできないので、1軒の中をウロウロするしかないのです。
一昨日、一大決心をして”倉庫に行こう!”と決めて、午前中、絵具と筆を車に乗せ倉庫で描く事にした。
引越しの時あの膨大な数の絵を見ながら、何とまだ途中ではないかと思われる絵がかなりの数あった様な気がする。
若かった時の自分のロマンは伝わってくるが”意余って力足らず”のようだ。
昔の自分に今の自分を描き込んでいくのも、自分の人生を描く事には変わりがない。
なんだかやる気が出て来た様で、この分だと当分の間、七里の倉庫に通う事になるだろう。
手始めに今、30年前に描いた150号の「ジャポネスク」に今の自分を描き込んでいこうと思っている。
小澤清人
倉庫の事
引越しにあたって、七里の駅から300mほどの所に、昔 印刷所として使われていた倉庫を借りる事ができた。
20畳ぐらいの事務所として使用していたとみられるスペースを借りたが、
膨大な数の絵が入りきらず、やむなくコンクリート打ちっ放しの工場部分にも
絵を置かせてもらう事になった。
これは大家さんと不動産屋さんのご好意である。
倉庫にいっぱいになった過去の絵を眺めていると、よくもこんなに描いてしまったと
ため息が出てきた。しかしながら同時に、自分の今までの人生を振り返る事ができるかもしれないとも思う。
過去の絵を見ていると、中には”これはこうすればもっと良くなる”と思う絵が
相当の数あるのに気が付いた。
昔の自分の絵に、今の自分を塗り重ねる事も、とても魅力的に
感じてくるのである。まさに自分の人生を絵が表現しているのではないか?
過去と現在との時間差が奥行きとして表現できるのではないか?
と思いつつ、倉庫の中の膨大な数の絵を眺めている今の私なのである。
小澤清人
新居の事 2
今日も朝起きて風呂に入り、おつとめも済ませ朝食のパンも食べてみると
あとは、なかなかやる事が見つからない。
あっちへ行ってみたり、こっちを見たり家の中をウロウロするだけなのである。
絵はまだ落ち着いて描けそうにもないので、あと一歩で完成しそうなものを
ジーっと見つめるばかりである。
私は考えてみるとこういう時間を持った事がない。いつもせかせかと何かをやっていないと駄目な性格の様であり、こういう事は初めての経験なのである。
だから本当は今の時間を冷静に感じて楽しまなければいけないのではないか
とも思われる。
しかしながら具体的には、引越しの時に片足を壊してしまった市松人形の修理をしなければならないと云う事が思い出され、今日はこれから修理に取り掛かるのである。
なんと私は落ち着かない人間なのだろうか。
落ち着いて絵を描ける様になるにはまだ当分時間がかかるような気がする。
小澤清人
新居の事
色々な事があって40年間住み慣れた高鼻町を引きはらい、
やっとの思いで、歩いて10分程のマンションに新居を構える事ができた。
今では40年間の私の生活をふりかえるきっかけにもなった様な気がして、
久しぶりに心休まる毎日になっている。
朝起きてパンを焼いて食べてみる様な生活である。
まだ、何をどの様にして行動して良いのかはまるでわからないのである。
筆を持って未完成の絵にちょっと加筆する様なまねはできるようである。
今日は昔ロンドンで買いあさった、アールヌーボーの銀のスプーンやら
ナイフなどを”銀みがき”で磨いている。
過去40年間の私の身のまわりの物がいっぺんに取り散らかされているので、どこから手を付けて良いやら?少しずつ手に触れるものを片付けていけば良いのではないかと思う。
ここから車で20分程の所にある七里に借りた倉庫には私の40年間に描いた絵がこれでもかと云わんばかりにつめ込まれている現在、過去を少しずつ振り返りながら一歩一歩ゆっくりと進んでいくのも良いのかもしれないと思う様になってきた。
小澤清人