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COLONNE DE KIYONDO 62~

***2020年10月30日***            No94

 

 

 

           「キャンバスの事」

 

 

 

先日、アトリエを整理していたらロールのキャンバスが出てきた。

 

ジッと見ていると、今描いている絹本とさほど違わない様に見えたので、昔使っていたこの細目のキャンバスに久しぶりに描いてみることにした。

 

描いてみるとやはりキャンバスは、絹本に描くよりもとても描き易い様である。

麻に下地が塗られているので気持ち良く油絵具がキャンバスに吸い付くのです。

絹本に描き始めて苦労していた分、今キャンバスに描いて得をした様な気分になります。

 

出てきたロールのキャンバスは大分時間が経って、程良くやけて良い色合いになったような気がします。

人間と同じで味が出るのには時間がかかるのかもしれません。

 

なにはともあれ、このロールのキャンバスを木枠に張る事から始めてみようと思っています。

 

 

 

                         小澤清人

 

 

 

***2020年10月1日***             No93

 

 

 

           「オヤジの事」

 

 

先日、妹が私に「お兄チャン、こんな物が出てきたよ」と1枚の

ヤケた古い色紙を出して来た。

 

私には、全く記憶がない。見ると、一句下手な文字で描いてあり、

又同じく下手な猫の絵が隅に描いてあり、左下に同じく下手な私の

サインと落款が押してあった。

 

読んでみると

 

  太鼓持ち あげくは猫の絵を描きて 親孝行はとてもかなわじ

 

としてある。

 

何十年か前?忘れたが親父が私に一枚の色紙を出して来て、

「お前、これ俺が今云う事を書いてみよ」と云って書かせたものが

これである。

 

私は涙と共にこの記憶が突然蘇ってきたのです。

 

 

 

                        小澤清人

 

 

 

***2020年9月28日***             No92

 

 

 

          「第46回 本展の事」

 

 

コロナ禍の中で、早10月をむかえようとしている今、できれば

是非共、本展を開催したいと思っている。

 

夏季展を無事に終える事ができ、都美館での本展が11月10日~

11月15日開催予定で、会期が迫って来たのです。

会が一体となって、万全の注意をはらって展覧会を開催したいのです。

 

絵描きにとっての年に一度の本展は、とても大切なものだと思います。

中止するとなると、流れは変わり人生もそれなりに変わってしまう様に思います。

自然の流れの中で絵描きにとって”継続は最大の力”であると思います。

 

他の美術団体では中止を選択する会もあるようです。意見は様々あると思います。

しかし、我が現代童画会は第46回本展が開催できる様に強く祈りつつ、前進して行きたいと思っています。

 

 

                       小澤清人

 

 

 

***2020年8月2日***           No91

 

 

 

            「乱歩展の事」

 

 

去年、私の銀座の個展を見に来てくれた北見隆氏に「乱歩先生と私Ⅲ」展に出品を依頼された。

 

`何故私に?`と思ったが、”私でよかったら。”と承諾させて頂いた。

北見氏曰く、「個展に出品された「仏蘭西人形之図」がいいですね」と云い、「あとできれば”黒猫”の絵を何枚か」とも云われた。

「仏蘭西人形之図」はモデルになったゴーティエの人形(私のコレクションであった)が胸に付けているブローチが、私が描いた”黒猫”だったのです。

さすが北見氏のコーディネイトではないか!

私の良さ?も理解してくれた上で「乱歩展」の中にもお誘い入れて

くれた事に大変感謝しているのです。

今のコロナ騒動の中、4月に開催される予定であったが延期され、7月30日~8月5日になった。

初日、会場に行ってみると、とても私好みの雰囲気で、他の仲間の人達とも良いコミュニケーションがとれる様な気がしています。

 

 

                           小澤清人

 

***2020年6月1日***          No90

 

 

 

            「自画像の事」

 

 

2020年5月の終わりに、美術雑誌の女性記者から電話をもらった。

 

「自画像を描いてもらえませんか?」との事であった。

私としては今、道楽がこうじて集めた”西洋人形”にのめり込んでいて

絹本に油彩で描く事に夢中なのである。

女性記者の方には、自画像を描くのはとても難しく、人物画は

私にとって永遠の課題ではあるが、人間、自分の事はとても客観的に

見られず、今の私にはとても難しいのです。と、お断りしたのです。

また何かお役に立てる事がありましたらよろしくおねがいします、

と電話を切ったのです。

 

暫く時間が経って考えてみると、”自画像も面白いかも・・・?”と

思い出しました。

2年前、我が会の本展で「特別展」を依頼され、「小澤清人の事」

という私の日記の様な展示をさせて頂いたが、その時にある写真家に

展示の様子など撮って頂いた中で、私のポートレートも撮って頂いた

事を思い出したのです。

カメラマンがプロの目で撮してくれた私のポートレートを参考にして

私なりに自画像を描くのも良いのかもしれないと思ったのです。

 

描いてみるとなかなかおもしろく、ちょっと客観的に自分を見る事が

できた様な気がするのです。

でも、やはり”自画像”を描くのは私にとって、とても難しい事の様に

思われるのです。

 

なにはともあれ、今 私が自画像を描くことができたのは、電話を

くれた美術雑誌の女性記者に大変感謝しているのです。

 

 

                         小澤清人

 

 

 

 

***2020年5月8日***             No89

 

 

 

           「赤いリボン」の事

 

 

2020年、今年になって銀座で1月に個展を開催して間もなく

コロナウィルス騒動が日本でも起こり始めた。

 

そして今は5月、私は家にこもり西洋人形を描き続けている。

しかも、結果として1体の同じ人形なのである。

私の最も愛して止まない1体である。

 

春季展の為に描き始めたのを皮切りに今日までに10点程に

なったと思う。後はその合間に過去に描き上げた作品を見て、

”これではだめだ!”と思う物を加筆したりしての毎日なのである。

 

自分が好きなものは、見ていて飽きないのです。

絵を描こうと、人形箪笥に向かって人形を選ぶと、どうしても同じ

1体の人形を取り出して描き始めてしまうのです。

でも、いつも新しい発見があるのです。

一つとして同じ顔にはならず、次の発見の為に新たなキャンバスに向かっていくのです。

よほどにこの西洋人形と私とは、何かの美意識で結ばれている様に

思えてくるのです。

いつまでになるかわかりませんが、当分この西洋人形と格闘してゆく

様な気がします。

 

お陰様で家にこもっていても、とても充実した日々を

過ごしているのです。

 

 

                       小澤清人

 

***2020年5月6日***             No88

 

 

 

           「今日この頃」の事

 

世の中、新型コロナウィルスが蔓延して何ヵ月か過ぎて、人々の生活が

ガラッと変わってしまった様に思われる。

 

私と云えば、変わった様にも思うが基本は何も変わってないのである。絵描きである事は毎日キャンバスに向かって自問自答しているのです。

 

手は動かすが、運動不足になるので、毎日一度は散歩に出る様にして

いるのです。

氷川参道から裏参道に出て、友人の営んでいる”隠れ家”の様な

”家カフェ”に行くのです。今はこういう状況下で休業しているので、

電話をかけて無理にお邪魔する毎日なのです。途中で買った豆大福を

手土産に行くのです。

 

同い年なので、話もよく合うし、また非常に芸術に造詣が深い方なので

私としても大変人生勉強になるのです。

一杯のコーヒーをご馳走になり、さわやかな心持になり、帰途につくのです。

 

家に帰ると不思議と新鮮な気持ちでキャンバスに向かって、筆が動き

仕事がはかどってゆくのです。

気分転換でき、心機一転、描き進める事ができるのです。

あまり先の事は考えず、今を大切に行動する事に心がけているのです。

 

その結果、絵描きは自分の人生の記録として作品が残ってゆくのだな

と思います。やはり一生懸命描いていかないと後で恥を残す事に

なるかもしれません。   コワイコワイ・・・。

 

 

                      小澤清人

 

 

 

 

***2020年5月1日***              No87

 

 

 

         「油・4A・F15」の事

 

去年の我が現代童画会本展を、私の中学時代の友人が見に来てくれた。

 

彼は2年後輩で私の所属していた美術部に入部してきて、その頃

放課後になると行動を共にした記憶がある。

 

本展を見終わり上のカフェでお茶を飲みながら、何十年ぶりで会った

興奮で話をしていると彼が、「私、小澤さんの絵を持っています」

と云った。

私には全く記憶がないので「どんな絵?」と聞くと、

「そのうちに機会があったらお見せします」と彼が云った。

 

半年ほど経った昨日、ホームページのメールを通じて友人から

スタッフのところにその絵の写真が送られてきて、見てみるとやはり

私の記憶からは全く抜け落ちているのです。

 

しかし、まぎれもなく私の絵なのです。

 

当時の私のサインでK.OZAWAと記され、当時心酔していた

佐伯祐三の影響がイヤミなくらいに出ているのです。

絵は風景で、西洋風の建物が真中にドンと描かれていて、場所は

横浜の山手で、山手十番館からフェリスに向かって歩いて行く

途中の西洋館を描いたのでは?と記憶が戻ってきたのです。

 

油・4A・F15 とは私の美術学校時代の 油科・4年Aクラス

(麻生三郎教室)F15はキャンバスの大きさを表記したもので、

絵の裏面に書いてあるそうです。当時、自由課題で学校に提出した

作品であったと思われます。

 

 

何よりも、私の後輩である彼が今、半世紀前に描いた私の絵を

大切に持っていてくれる事に大変感謝しているのです。

 

 

 

                       小澤清人

 

この画像は所有者様のお許しを頂いて掲載させて頂いております。コピー、他使用は固くお断り致します。

***2020年4月24日***             No86

 

 

 

         「パリの空の下」の事

 

 

今、世界中が新型コロナウィルスの事で大パニックに陥っている。

 

私と云えば、絵しか描けないので、生活のスタイルは今までと全く

変わらないのです。

 

相変わらず、気に入った西洋人形を描いている毎日なのである。

 

ちょっと前のある日、今までに描いた西洋人形、時間差はあるが、

パリの風景をバックに私のお気に入りの西洋人形(ブリュ)を

描いた絵を5枚出して見た。

描いた時期はそれぞれで、前後約30年ぐらいなものである。

 

これを横一列に並べてみると、何とパリの空の下、5体の私の

愛して止まない西洋人形達がこちらに向かって語りかけてくるのです。

まさに私の人生そのものの様な気がします。

 

絵と云うのは画面に時間を超越して表現できるものである事を

再度、認識させられた様な気がしたのです。

 

 

 

 

                       小澤清人

 

 

***2020年3月2日***              No85

 

 

 

          「銀座の個展の事」

 

 

私の親友である彫刻家に「キヨンド! お前 会の頭なんだから会の

為にもたまには銀座で展覧会をやれ、俺が画廊を紹介してやる」

と云われ、銀座1丁目にある老舗画廊で久しぶりに銀座で個展を

開催する事になった。

 瞬く間の、又 アッと云う間の1週間ではあったが、私にとって

新鮮で非日常的な毎日?であったので、とても貴重な経験をさせて

もらった様に今にして思えるのです。

 

朝、6時に起きて会場には10時半前には到着し、11時の開場を

待つのです。(朝食は、画廊の近くのコンビニでオニギリを買って

もちろん11時前に済ませているのです。)

 

お陰様で、AM11時~PM6時まで 息をつく暇なく、私とスタッフは

大忙しなのです。

そうして1日が終わり、画廊主に挨拶をして帰途につくのです。

銀座1丁目の画廊を出て中央通りを東京駅まで、夕景を楽しみながら

ぶらぶらと歩くのです。(これが夢の様なひと時なのです)

今の東京駅は色々な店がたくさん地下街にあり、まるで迷路のよう

なのです。これがだいぶ理解できた頃1週間が過ぎ私の個展は終るのです。

東京駅から電車に乗る前に、義弟のいる寿司屋に寄って一杯やりながら

にぎりを摘み、今日一日の反省をするのも楽しみの一つなのです。

 

朝早く起きて、”今日は何を着て行こうか?・・・オーバーコートは電車の中では暑いかもしれないからやめようか・・・”など考えるのもとても

楽しいのです。

 

あっ!それと最終日 ”いよいよ今日で終わりだな・・・” とちょっと

寂しく思っている時、名古屋から 1930年代のアメリカから

抜け出して来た様なボルサリーノを被ってイタリア風のダブルの

̝縞目のスーツに長いトレンチコートに身をかためた(映画俳優の様な)

私のおしゃれな弟子が搬出の助っ人も兼ねてかけつけてくれたのです。

何と嬉しいことではありませんか!

 

搬出も無事終わり、画廊主に挨拶をして、弟子、スタッフ、私の3人は

美しい夕景の大通りを東京駅に向かって「どこかで打ち上げをやろうか?」と話しながら歩いて行きました。(もちろん3人組の主役は

ボルサリーノにトレンチコートを着た弟子なのです)

弟子はこれからトンボ返りで名古屋へ帰るとの事。小一時間の短い

”打ち上げ”だったのだが・・・私にとって、とても忘れられない一時であったのです。

 

 

また近いうちに銀座で個展をやりたいなぁ~、と思っている

今日この頃なのです。

 

 

                        小澤清人

©小澤清人

***2019年11月20日***             No84

 

 

 

          「第45回本展の事」

 

 

2019年11月16日午後2時・・・我が現代童画会本展が終了しました。

 

10月24日の搬入から始まり、私にとっては今年は最も長く感じられました。

 

つくづく考えるに、第2回本展に落選して以来40年以上の月日が流れているのです。

翌年、新人賞を頂いてから、私は現代童画会の人々によって育てられて来た様に思う。

先人の方々や同世代の仲間とのふれ合いにより、色々な人生勉強をしてきた様に思う。

時には敵同士の様に、又兄弟の様に瞬く間に過ぎて来てしまいました。

今になってみると、皆なつかしい、儚い夢の様な気がします。

今年、長く感じたのは、私の仲間が体調を崩し、私が頑張らねばと

緊張したからかもしれません。

 

つくづく、いつもおんぶに抱っこの私としては仲間の有難さを感じた

今年の本展であった様です。

 

 

                           小澤清人

 

 

 

©小澤清人

***2019年5月23日***             No83

 

 

           「 ア  ト リ エ 」

 

【今回は文章はありません】

 

 

©小澤清人

***2019年3月29日***             No82

 

 

 

 

             「生きる事」

 

 

何年か前からか? 生きると云う事にとても不安を感じる様になった。

 

私は、若い頃は”明日は明日の風が吹く”と云う様に、あまり物事に

こだわらずに生活して来た様に思う。

とても無責任でいい加減だったのかもしれない。

そんな調子で明日の事も考えずに”筆一本で生きて行くんだ!!”と

場当たりで勤めにもつかずに、したがって家庭というものも持たずに

自由に生きてきたのです。

 

よくもまあ、これまでやってこられたと今は思うのです。

少し気が弱くなってきているのかもしれません。

そんな時は、”人は一人で生まれて来て一人で死んで行く”

当たり前の事ではあるが、自分に言い聞かせているのです。

 

しかしある時は、これが私にとっての最良の生き方だった様にも思われるのです。

体の調子がとても良い時です。

したがってこれからは老化していく体の、体調管理をして行かなければならないと思っています。

 

あらゆる意味でプラス思考でなければなりません。

今になってみて私は、絵を描く事以外何もできない事をとても良く

理解できるようになりました。それには健康でなければなりません。

健康であれば、上野の山でアベックを相手に似顔絵を描く事もできる

かもしれない・・・。もっとも土地の地周りに殴られるかもしれません。

 

生きると云う事は、とても難しい様に思われる今日この頃です。

 

これからの人生はどうあがいても今までの”生き様”の延長線にすぎないのです。

覚悟を決めて絵に精進する以外に私には生きて行く道は、

外にないのだと思います。

 

 

                       小澤清人

 

 

 

 

 

***2018年11月28日***            NO81

 

 

 

 

          「特別展示の事」

 

 

去年の43回本展も終わった頃、企画会議で来年はお前が特別展をやる様にと、仲間から云われた。

その日から私の特別展への思いが始まりました。

 

考えて見ると私は、現代童画会で育てられてきた様に思う。

絵描きを志して半世紀が経ち、今が自分の人生を振り返ってみて

考える時かな?と思ったのです。

会の嵐柴氏に「画集と云うか、日記と云うか・・・今までの私の人生を本にしてみたいのです」と話してみると、氏は快くアートディレクターをかって出てくれたのです。

(後になって、あまり私がうるさいので後悔したのだと思う・・・)

 

私の6月の誕生日までに完成するつもりで、資料を集め、昔を振り返りながら、案外楽しくのめり込んでいきました。

このホームページに載せた私のコラムも本の中にもり込み、

画集のような、又日記の様な私の”生き様本”が出来上がりました。

 

本が完成すると、特別展の展示方法は、かなり具体的なイメージが

浮かんできたのです。

(今回の私の特別展示は、私の今までの人生の自己表現なのだ、

と思ったのです。)

今までの私の仕事(道楽)を並べれば良いのだと気が付きました。

 

しかしこれは私の力だけではどうにもなりません。

 

色々な方々の多大な協力を得て初めて私の特別展の会場ができました。

一人の人間の力ではどうにもならない事も再認識させられました。

人間は長い付き合いから、お互い理解し合い助け合える事も知りました

 

今回の私の特別展示は、私にとってジャストタイミングであった様

です。

たくさんの協力して頂いた方々に心より深く感謝致しております。

ありがとうございました。

 

 

                         小澤清人

 

 

 

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©小澤清人

***2018年11月6日***             No80

 

 

 

         「夢遊病?の事」

 

 

 

濃紺の天中に満月がある。

5才の私は、氷川参道の家を出て、大宮駅に向かってふらふらと

歩いて行く。

本当は西口の”どぶ板横丁”の中程にある「玉屋」と云う酒場にいる

母親の所に行きたいのだが、子供の私には長い踏み切りを渡って

西口に行くことはできないのです。

仕方がないので、駅前の露店で靴を売っている父親のところへ行く

途中なのです。

参道から、駅までの道中は細くダラダラと、暗い筒の中を行く様です。

駅に近付くと、街燈の明かりでだんだんと明るくなってきて、

人が行き来して、賑やかになってきます。

私は、父親に叱られると思い、カーバイトの臭いを嗅ぎながら

佇んでいると、義伯父の正治おじさんが「清人じゃないか!」と

私に気が付きました。

私はもう涙で顔をぐしゃぐしゃにして大声で泣き叫ばずには

いられませんでした。

 

 

                       小澤清人

***2018年6月***                No79

 

 

 

         「画家 小澤清人の事」

 

 

我が会の仲間から先年、来年の本展の特別展示を私がやる様にと

云われた。

しかしながら、今までの特別展の流れからすると、私は会の出品作以外

には私の道楽人生の生き様しかないのです。

よくもまぁ今まで生き延びて来られたなぁと云う実感なのです。

 

それでいいのならさせてもらいましょうか・・・

と云う事で、7年程前から私のスタッフに立ち上げてもらった

ホームページを通して書いて来た”私の思い”などの文章も含めた

画集を作ってみたいと思い立ったのです。

すると、今作らないと一生できないな・・・とも思い、せっかちな

私は次の日には会の嵐柴氏に相談する事にしたのです。

良い事に我が会は、三位一体でできているので、プロの印刷関係者、

デザイナーなどが揃っているので、心配はありません。

嵐柴氏はすぐにOKしてくれて・・・、しかし今は、あまりにも

私がうるさいので、チョット引き受けたのを後悔しているかも

しれません。

そんなこんなで今は二度目の校正に入るところに来ています。

嵐柴氏は先日、目の手術の為一週間程入院されていましたが、

退院早々に私の画集の校正をするはめになったのです。

何とも気の毒な事と思っております。

 

本日は企画委員会が事務所で行われ、昨日出来上がった

嵐柴氏制作による画集の宣伝チラシを企画委員の仲間に見せると

案の定散々イヤミを云われました。

やはり絵描きは顔を売るのではなく、絵を売るのだと、昔

塗師先生に云われましたが、それは本当の事の様です。

 

何はともあれ、6月22日私の誕生日に画集は完成する予定です。

 

 

 

                       小澤清人

 

 

 

 

***2018年4月9日***               No78

 

 

 

            「赫火輪の事」

 

 

北九州、門司の朝倉三心先生と知り合いになったのは、25年程前の事

である。

その頃、私の叔母の友人が、神田須田町で高級駄菓子の店を開いており

その店のショウウィンドーに掛けてあった、私の「招福猫児」の版画が

先生の目にとまったのが縁である。

先生は、月に一度程上京して神田の出版社と雑誌の打ち合わせをする

様で、たまたま私の版画を目にしたのである。

先生が上京した折にすずらん通りの五十番で初めてお会いした時、

「あなたは80才の容ぼうですね」と云われ、何と答えてよいやら

戸惑った記憶がある。

その後、人物や花の絵を頼まれ、私の好んで使う赤と金の色を使用した絵を多く買って頂きました。

そのうち、先生から「太陽の図」を描いて下さいと云われ、訳がわからず無理して描いてみました。送ってみると「これでいいです」と

次々と依頼され、描いているうちに私もだんだんと、この方が良いと云う”絶対バランス”の様なものがわかってきた様で、おもしろくなってきました。

太陽は生命の源の様なもので、生き物は太陽がなければ生きられない

エネルギーそのものなのである。

太陽を絵にする事はほとんど不可能である。しかし、絵に描いた太陽を

より本物のイメージに近づける事で良い”赫火輪”の絵を創り上げる事

ができると信じている。

 

朝倉先生が他界された今も、私は少しずつ赫火輪を描き続けている。

 

 

 

                           小澤清人

 

 

 

それぞれをクリックして頂くと拡大表示されます         ©小澤清人

***2018年3月1日***               No77

 

 

 

          「ハイドパークの月の事」

 

 

ここロンドンの地下鉄、ランカスターゲート駅を降り、ハイドパーク

沿いのベイスウォーター通りを歩き、パブ”スワン”を超すと間もなく

常宿のコロンビアホテルに到着する。

 

昨日ロンドンに着き、早朝3時に目が覚め、長い薔薇模様のカーテンを

開けると、バルコニー越しに深いコバルトブルーの空に冴えた

ハイドパークの月が天中に浮かんでいた。

グリーンのオーバーコートにサーモンピンクの厚手のマフラーを

首に巻き付け、ショルダーバックを袈裟がけに、手袋の手には

懐中電灯を持ち、ベイスウォーター通りで黒いタクシーを待つ。

「Bermondsey antique market please」と運転手に告げる。

「ok」すぐに出発、早朝のドロボー市にむけて走り出す。

金曜日、暗いうちから始まるバーマンジーの市に行くのです。

 

日が昇って明るくなる頃には良い物はもう無いのである。

もっとも、暗いうち懐中電灯をあてながら目を凝らして見る物は、

明るくなってよく見ると失敗も多いのである。

 

今朝はアールヌーボーのスプーン6本と、ガーネットの指環2つ、

ボロボロの熊1匹を手に入れた。ボロボロの熊は明るくなってみても

それなりに良かった様です。

この市は、私にとって極上の物はあまりないが、中で掘り出し物がよくあるのです。前の年などはプルシャンブル―の人形用の乳母車を買い

日本に送るのに苦労した思い出があります。

 

7時頃にはもう明るくなり、物が色褪せて見える様です。

気持ちも落ち着き、後は近くの食堂に入ってベーコンエッグとカリカリに焼いた薄切りの食パンにバターを塗った食事をコーヒーで

流し込みます。その時に、今買ったばかりの品物をもう一度吟味するのです。この時に買ったアールヌーボーのスプーンは、あまりきれいでは

なかったのだけれども、使用されてなく、1902年の刻印のある

イギリスの代表的なヌーボーのデザインで、ホテルに戻り手入れを

してみると、ほとんど新品で完品であったのです。

バーマンジーのアンティークマーケットは運が良いと良い品物に

巡り合える事が多い様です。

 

日が差して来る頃、私はベイスウォーター通りのハイドパークに面した

コロンビアホテルに戻るのですが、バルコニーから見る空は鉛色に

変化しているのです。

そして雨が・・・。

これが冬のロンドンの空模様なのである。

 

                           小澤清人

 

 

 

 

***2018年1月15日***              No76

 

 

 

          「大宮機関區の事」

 

 

私が小さい頃、大宮は国鉄の町であった。

小学校でも、組の半数近くの家は、国鉄職員だった様な気がする。

休日は、母に連れられ、東京の祖母の家に行く時、大宮を出発する

京浜東北線の車窓から長いレンガ造りの大宮機関區と書かれた

車庫が見えるのである。

 

大宮に新幹線が通る様になり、この大宮機関區は近いうちに取り壊されることになった。

私としてはとても残念に思い、絵に残す事にした。

当時私は佐伯祐三に心酔しており、古いレンガ造りの風情のある建物

等に惹かれ、よく描きに行っていたのです。旧都庁の建物や新橋の

ガード下などです。

 

いざ大宮機関區を描くとなると、線路の上で描く事はできず、大変苦労

しました。大宮東口の方から見るのですが、高い塀に阻まれて機関區は

よく見えないのです。仕方なく、当時お世話になっていた写真家の

小暮親平先生にお頼みして、機関區の全体を写真におさめてもらい

それをもとに描き進める事ができたのです。写真自体が巧みに撮られているので、絵にするのに大変助かりました。

 

しかしながら日本人は歴史的建造物をいとも簡単に壊してしまうものの

様です。

 

今、私の描いた”大宮機関區”は、母校の桜木小学校の玄関アプローチにかけてあります。

 

                        小澤清人

 

 

 

***2018年1月7日***               No75

 

 

 

           「お浜さんの事」

 

 

お浜さんは、私の父方の祖母である。

 

幼い頃私は、この祖母が大嫌いであった。子供心に小意地が悪く、

感情的な女性に思えたのです。

私の母に云わせると、祖母は赤ん坊の私を抱きながら歌う様に

”憎い嫁から可愛いい孫が ”と云っていたそうである。

今になってみると、江戸弁丸出しで

チョット色気があって、若い頃には

粋ないい女だった様に思う。

晩年は私のアトリエの隣に住む様になり、私の良きモデルとして活躍してくれたのです。

二枚に折れた腰をふりながら買い物カゴをぶら下げてスタスタと歩いて行く姿をよく見かけたものです。

 

ある日、私の友人が祖母につかまり「ちょいとおまえさんはキヨトの

お友だちだろう?あたしに花ムシロを買って来ておくれでないかい」

と云われ、ヘイコウして私のアトリエに逃げる様に入って来た事が

あった。

 

私の祖母、お浜さんは昔の不良少女、チャキチャキの江戸っ子、

明治の女なのです。

 

 

                         小澤清人

 

 

PHOTO BY SEIJI URUSHIBARA©

***2017年12月8日***              No74

 

 

 

          「KIYONDOLLの事」

 

 

私は、人形道楽になった時、よせばいいのに自分で人形を作ってみたいという事になり、色々な人の協力を得て、12体程の私の人形が完成したのです。

男の子6体、女の子6体で兄弟姉妹が3体づつで計12体になるのです

兄はやや凛々しく、弟は頼りなさげで、姉はややきりっとして、妹は

後ろ頭が刈上げです。

 

何とも楽しく夢中で作り始めたのですが、材料で手かぶれ、友人の

医者に診てもらうと「キヨンドこれ続けていると死ぬぞ!」と

云われてしまった。

 

私は今まで絵という平面表現をしていたので、立体であり、つかむ

事ができる3次元の世界、しかも一つ一つ物を作りだす喜びの世界、

私の人形創作の世界が始まろうとしていたので、とてもショックを

受けたのです。

やむなく手術用手袋をして、やりかけた12体のKIYONDOLL

だけは完成させなければと、手をだましだまし、また、彫刻家、

額職人、人形作家などの友人の協力を経て、12体の

KIYONDOLLが完成したのです。

 

私にとって人形作りは、絵を描く以上に楽しい作業ではあるが、

ある面、のめり込む様な危険もはらんでいるような気がする。

材料が体に合わないのが、かえって良かったのかもしれない。

 

絵描きは絵を描いていれば良いのである。

 

 

                      小澤清人

 

 

 

©小澤清人

***2017年11月30日***             No73

 

 

 

          「カフェ宵待草の事」

 

 

 

京王井の頭線の吉祥寺、ひとつ手前の井の頭公園駅 改札を出て

右前の方を見るとカフェ宵待草がある。

何とも大正ロマン風の和洋折衷の雰囲気の店である。

 

初代女店主が、夢二の絵からぬけ出て来た様な、儚げな大正美人で

私は思わず店名を”宵待草”と名付けたのです。

二代目店主と私は、サロンを開き、そこで若い人達に絵の指導を行う

様になり、多くの弟子ができました。

彼らはそれぞれに自分の道に進み、人生を楽しんでいる様です。

 

40年近く過ぎた今、私の関わった宵待草は終わりをつげ、

さみしい様な、懐かしい様な思いでいっぱいです。

絵の事、人形の事、私の人生の多くが長い間カフェ宵待草に関わって

きたのです。

 

絵描きにとって、自分が関わって来た時代は、とても貴重なものだと

思います。云いかえれば、時代がものを表現させるのだとも云えます。

絵描きにとっての時代との出会いは、かけがえのない宝物なのだと

思います。

 

井の頭公園の夜桜

井の頭公園駅前の夏の盆踊り

カフェ宵待草での蚤の市

 

色々な事が頭の中によみがえってくるのです。

私は、カフェ宵待草を思いながら

又新たな世界を求め続けて行くのだろうと思っている。

 

 

                         小澤清人

 

©小澤清人

***2017年11月27日***         No72

 

 

 

          「小林亜星氏の事」

 

 

2008年の正月、久しぶりにカフェ”宵待草”に亜星先生と早苗夫人が

来てくれた。

 

私は去年の本展に、両親の肖像を描いて発表したので、ある意味で人物はこれまでかと云う思いでいっぱいでした。

自分という人間をこの世に送り込んでくれた父母は、モデルとしては

原点であり、私としても今しか描けないという思いでいっぱいだったのです。

絵が完成し本展も無事終わると、何となくフヌケの様な自分が

あるのです。

 

早苗夫人は、コーヒーを飲みながら「キヨンドさん、元気ないネ、どうしたの?」と云うのを聞きながら、となりでチョット居眠りをしている亜星氏の顔をスケッチしていました。そのうち ”アッそうだ” と思い、

「先生、私のモデルになってください」と頼み込んでいたのです。

早苗夫人は、私が描いているスケッチをチラッと見て

「キヨンドさんが描くならいいわよ!」と云ってくれたのです。

私は、新しい大きくて素晴らしいモデルを見つける事ができたのです。

 

人物画は、その人物の全てを平面に表現しなければなりません。

小林亜星氏は2008年の年明けから私に次なる目標をあたえてくれた

大恩人なのです。

 

 

                          小澤清人

 

 

©小澤清人

***2017年11月9日***             No71

 

 

 

          「𠮷水由里子さんのこと」

 

 

𠮷水由里子氏は、現代童画会の”ゆりの花”のような方である。

 

ある日、成城のお屋敷に絵の事で尋ね、道に迷っていると、向こうから

肩までたらした長い髪をなびかせながら、深紅のセーターを着た洋装の

𠮷水さんが、こちらに向かって迎えに来てくれた。

何とも華やかな雰囲気の方である。

 

彼女が現代童画会に出品し始めて何年か経った頃だったと思う。

立派な門構えのお屋敷の中に入り、石畳の庭を通り過ぎ玄関に入ると、

左手の壁に10号程の淡い赤い花を満開につけた樹木の染物の絵が

品のいい額に収められ、掛けられていた。

一目で彼女の作品だとわかる。

初めて本展で彼女の大作、四季の中に僧侶が立っている”染め絵”を

見た時と同じ感動がその時におきたのです。

不思議な物語性と温かい愛情に包まれた様な、しかも少し装飾美を

加味した様な作品なのです。

 

私は彼女の絵がとても好きである。

 

ご主人との長い印度の生活と彼女が持って生まれた日本美の感性、

それともう一つ、彼女は古い物を愛でる感性を持ち合わせている

ところです。私と同じ骨董趣味なのでしょう、これらがうまく混ざり合って彼女の人生観が絵になって自己表現されているのである。

これはとても素晴らしい事だと私は思っているのです。

 

昨年の春季展の時、彼女が受付にいないのがとても寂しく

思われました。いつも品の良い着物姿の彼女を見ると私はとても安心

するのです。

これからも”良い絵”をたくさん描いて頂き、長いお付き合いを

お願いしたいものである。

 

 

                        小澤清人

 

 

 

 

***2017年9月2日***              No70

 

 

 

          「オヤジの事」

 

 

1955年頃の夕方、オヤジは、私を背中に背負ったオフクロと、上野の

西郷さんの銅像の前のベンチで長い間話をしていた様です。

 

東京中を、ボヘミアンの様に彷徨い続け最後に”西郷さん”にたどり

着いたのです。

 

「お前は麹町の家へ帰れ」と、オヤジは何回も云った様です。

するとオフクロは「そうですか、それでは・・・。」と行きかけると

オヤジはまた「おい、チョット待て!」と云う。

これの繰り返しである。

最後は、親子3人 オヤジの妹の住んでいる大宮に行ったのです。

 

そして7年前、オヤジは大宮で死んだのです。

 

大宮でも10回程引越しをしました。大宮市内で桜木町1丁目から

4丁目にと、やはりボヘミアンの様でした。

 

私が中学2年の時、桜木町から東口の高鼻町へと引越してやっと

落ち着いたのです。

 

大宮に来てから3~4年オヤジは路店で靴を売ったり、小学校の庭で

ヒヨコやヨーヨーなども売り、私はいつもオヤジに付いて行き、

サクラなどもしました。

ある時、日雇いの斡旋で役所に行った時「君は大学も出ているのに

なぜこんな事をやっているんだ?」と云われたようです。

その後、砂利屋に就職して、生活は安定してきました。又、オリンピック景気で砂利屋は良くなり、根は頭のキレるオヤジは独立して高鼻町に

小さな家を買う事ができました。

その頃私には年の離れた妹ができたのです。

 

その後、私は画家を志し、美大生の頃オヤジの砂利屋は倒産しました。

私はオヤジに「好きな事をやった方がいいよ」と云っていました。

 

そしてオヤジは骨董屋になりました。書画屋です。若い頃から文字を書くのが好きで、小説家になりたかったようです。 市ではある事ない事

好きな事を云って、軸物を振っていて仲間には重宝された様でした。

私もその頃からオヤジを送り迎えしながら、昼に行われる道具の市で

モデルになるようなものを買い求めたものです。

血とは恐ろしいもので、似ているのです。オヤジがいいと思う物は、

私もとても良いと思うのです。

 

オヤジが他界してから、とても彼の気持ちがわかる様になりました。

 と云うよりも、私の中の同じ血がどんどんと強くなってきている

のでしょう。昔から言われる様に”歴史は繰り返す”様に思います。

最近、私の中にオヤジがのり移った様にも思えるのです。

これからの人生、オヤジの知恵を貸してもらえる様で、力強く思って

おります。

 

 

                          小澤清人

 

 

        「2007年 父」  F120号

©小澤清人

 

 

 

           「オフクロの事」

 

 

1954年、親子3人福生のオフクロのおばの家に何ヵ月かやっかいに

なったらしい。

 

毎日オフクロは赤ん坊の私を背負い、となり町まで線路の上を歩いて

買い物に行くのです。私の記憶では、オフクロの背中の首のつけ根に

ある1cm程のホクロが思い浮かび、私の手には菓子屋で買って

もらったウェハースの鬼の面がにぎられている。

 

ある日、いつもの様に線路の上を歩いていると、後ろから電車が来て

危うくひかれるところだった様です。都会育ちのオフクロは単線なる

ものを知らなかった様で、もしひかれていたら生活苦で親子心中を

したのだと思われたでしょう。

 

私には、本当は2つ上に兄が、又7つ下に弟がいるはずでした。

でも二人共1週間で亡くなりました。

私は14才になるまで、一人っ子の様にオフクロの愛情に包まれながら育ちました。その後、妹が生まれる事となり、オフクロを取られるのではないかと、とても悲しい思いをしました。生まれてみると妹は

とても可愛く、今となっては独り身の私はオフクロと共に妹に

とても世話になっております。

 

余談ですが、妹は二人の女の子をを生み、長女の紅子は今

日本画家をしております。これから数々の苦労が待ち受けていると

思われます。

昨日、夕飯の時オフクロが突然「紅子、お金はあるのかい?なかったらおばあちゃんが少しあげるよ」と云いました。私はふと紅子の顔を

見ると「おばあちゃん大丈夫だよ、ありがとう!」と彼女は言うの

でした。

 

妹は、とてもオフクロに似てきました。彼女の紅子を見る目は、私を見るオフクロの目と同じなのです。

福生であの時、親子心中にならなかった事にとても感謝しているのです

 

 

                       小澤清人

 

 

        「2007年 母」  F120号

©小澤清人

       「私のルナ・パーク」     F150号

©小澤清人

***2017年6月19日***              No69

 

 

 

        「吉田キミコ氏個展の事」

 

2017年5月26日、個展の招待をいただき 原宿表参道のリビーナに

4時頃到着した。

会場に入ると、当時のカフェ”宵待草”のスタッフ、弟子、友人など

なつかしい顔ぶれがいっぱいである。

 

キミコ氏ならではの展示、40年ちかくの彼女の人生がそこに

ちりばめられ、多少なりとも関わらせてもらった私は当時の世界に

ひきもどされる様でした。

 

小林亜星先生、早苗さんご夫妻も来場され、久しぶりに当時の楽しい

時を思い出し語らいました。

 

今、我が会でお世話になっているパジコの木村進社長父子も

吉田キミコ氏とは、私よりも昔からの親友である。

いつもの温かい表情で私をなごませてくれます。

 

人形屋佐吉氏は、キミコ氏にとって私に云わせると”モロハノヤイバ”

の感がある。美意識のあるところで共鳴しあっているのであろう。

 

弥生美術館の中村圭子氏がかけつけてくれ、久しぶりに話をしたが

今年の本展の事も館長さんにヨロシク伝えてくださいと、とっさに

服部聖子氏の名前が出ず”アレ”といってしまい、感のキイた

中村圭子氏は”アレにですネ。”とニヤリと答えてくれた。

 

ちょっと遅れて我が会の有賀忍氏が来場してくれ、ひととおり会場を

見て私に「アナタがいたからこの展覧会はできたのだよ」と

”コロシモンク”を云ってくれた。

 

吉田キミコ氏の人生にカンパイ!

 

 

                       小澤清人

 

***2017年5月19日***           No68

 

 

 

 

           「 薔薇の事 」

 

 

昨日、薔薇を頂いた

ピエール・ド・ロンサールである。

 

庭から切り終えたばかりの七分咲の可愛らしい娘達である。

 

やや、花身の色の淡いもので、花瓶に活けて今朝見ると

自然とそれぞれの花達の立ち位置が決まり、絵になっているのです。

 

いつもの事ですが、さっそく描いてみようと思うのですが、

一年ぶりで何となく躊躇してしまい、スケッチにしようか?、

油彩にしようか?、と迷って1日~2日とすぐ過ぎてしまいます。

そして花達は成長が早く、すぐに枯れてしまうのです。

どうしよう・・・早く描かなければ、と思うのは毎年同じ事なのです。

 

いつも一枚の絵が完成する頃には花瓶に活け込まれた薔薇は

ドライフラワーと化しているのです。

 

あ! 思い出してみると若い頃、白銅製のゴルフバックを模った

お気に入りの花瓶に薔薇のドライフラワーを入れて

よく描いたものである。題名は ”ゴルフバックのドライフラワー”

と記憶している。

30年も前の事で、今思うと生の薔薇を描くよりは、とても

楽だったように思う。当時の私にとって苦肉の策だった様にも

思われる。

 

 

                       小澤清人

 

 

 

***2017年 3月3日***           No67

 

 

 

           「 刺青の事 」

 

40年前、刺青の絵を描いた。

 

それは、小松崎邦雄先生が”花の衣”と云う金髪の西洋婦人が、

唐獅子牡丹の背中いっぱいの総刺青で、こちらを振り返っているという図の絵で、浦和の会館の展示会場で観たのである。

 

それから一年をかけ、夢中で80号の刺青の絵を何枚か描いた。

それをその頃所属していた美術団体に出品したいと先生に云うと、

ストップがかかった。当時としては当たり前の事の様である。

 

私も先生には、刺青を描くのは私が古伊万里の”赤絵”の絵付けの焼き物が好きだから、女体に絵付けをすれば”刺青”になると、わけのわからない言い訳をぶつけて先生をこまらせたものだった。

 

「蝶」と題した女体に蛇と牡丹の刺青を施した立像の絵を、当時

出版された裸婦像ばかりの画集に掲載された。画集を監修した

福田和彦先生の評で 

-悪くはないが、手と足の表現が未完成であるー

と評された。

当時は納得がいかなかったが、今は十分に納得がいくのである。

 

今回、もう一度刺青の絵を描きたいと思い、描き始めている。

40年の時間の流れの中で、絵に対する自分の思いというのは

そう変わらないのかもしれない。

 

 

 

                      小澤清人                     

 

 

 

***2016年 12月10日***            No66

 

 

 

          「有竹重治氏の事」

 

 

昨日、早稲田 鶴巻町にある”オールドタイムス”に行った。

アンティークのリストウォッチを2本、ベルトが駄目になったので

変えてもらう為、オーナーの小原氏を訪ねたのである。

 

1本は普段している1950年代の”BULOVA(ブローバ)”で

もう1本は1920年代の銀製のROLEX(ロレックス)である。

これは私のお気に入りの物で、25年程前ロンドンの

アンティーククオリアスの有竹氏から縁あって手に入れたものである。

 

その前年”ミスターシゲ”こと有竹氏の店に行った時、「キヨンド、

おれの肖像画を描いてくれないか?」と頼まれ、翌年、完成した

3号の肖像画を持ってクオリアスの有竹氏の店に行くと、とても

気に入ってくれ、「おれは現金がないからこれで勘弁してくれ」

と云って1920年代の銀製の小ぶりで可愛いらしいロレックス

のドーバーを店のショーケースから取り出したのである。

私はいっぺんでそれが気に入ってしまい、さすが、有竹氏は

プロのディーラーだな、と再認識させられた記憶がある。

 

オールドタイムスの店に入り、小原氏に2本のリストウォッチを

渡し、ベルトを交換してもらっていると、「有竹氏が10月に

お亡くなりになったのを清人さんご存知ですか?」と小原氏が

私に云った。

 

今、まさにベルト交換をしてもらっている銀製のロレックスの

ドーバーが有竹氏の訃報を私に知らせたのである。

 

 

                         小澤清人

 

 

 

***2016年  11月19日***           No65

 

 

 

            「講演の事」

 

 

今、坂出に向かう新幹線の中・・・・・・今もって何を話したらよいやら、

思い惑っている。よからぬ事を口ばしり、石が飛んできて壇上のつゆと消えるかもしれない・・・・・などと柄にもない事を考えています。

坂出に着いて皆さんの顔を見れば落ち着くのではないかと希望的な見方もしている。

 

坂出と我が会(私)との付き合いは長いもので30年になる。

瀬戸大橋ができるに際して坂出市が四国の玄関口になるという事で

坂出市美術館が造られ、色々な縁があって、私は30年間出張して

今に至っている。

 

考えてみると、様々な事が頭によみがえってくる。

昨日も、昔 坂出張でお世話になった役所の方の訃報が我が家に

送られてきて、良くして頂いた方がまた一人・・・という思いである。

 

もうすぐ名古屋駅に到着する。

 

今回の講演は坂出市長の依頼によるものである。

市長とは長い間のご縁があり、今は公私共にとてもお世話に

なっている。

出会いは、私が坂出出張の初めの頃で、坂出展初日会場、贈賞式の前に”メンズクラブ”の表紙から飛び出て来たような、ピンクのボタンダウンのシャツに金ボタンの紺のブレザーに身をかため、バッチリきめたアイビーカットのピカピカの姿で私の目の前に現れ「綾です」と大きな文字で 綾宏 と印刷された名刺を出されたのです。私も挨拶を交わし

とてもビックリしました。それが綾氏との初めての出会いでした。

その時、”こういう議員さんもいるんだなぁ~”と思い何となく私は

好感を持った様でした。

 

次に10年以上経った頃、坂出に出張した夜の食事会で坂出市長が来られるという事で、私はちょっと緊張していました。

席上”やはりあの時のメンズクラブだ”と思い、「前にもお会いした事がありますよね」と云うと、何となく向こうを向いて知らんぷりをするのです。いたずら小僧の少年の様でした。酒を飲み打ち解けてくると、いたずら小僧の少年は「黒のダブルに金魚の柄のアロハを着たトッポイ男に知り合いはいない」とぬけぬけとぬかしたものでした。

私としては”自分だって似たようなものではないか・・・?”と綾氏を見返してみた。

 

 今、坂出からの帰途、マリンライナー46号の中

車窓からは素晴らしい瀬戸内海の日没の風景が広がって行く。

 

 

                         小澤清人

 

 

 

***2016年 11月19日***            No64

 

 

 

 

            「本展の事」

 

 

第42回 現代童画会本展が、11月15日に終了する事ができた。

 

私は今回5点の西洋人形の絵と、30年前に創ったKIYONDOLLを

出品した。

絵はシルクサテンに油彩で描いたものでモデルは私の今までの

コレクションのなかの物で、ブリュー3体、ゴーティエ2体である。

今さら、昔創った人形を出品したのは、我が会で立体を立ち上げて

何年か経つからである。平面が主である我が会が”これからの立体”を

意識した動きで、これから前途多難ではあるが、私なりの立体表現の

見本を示すつもりもありました。裏目に出るかもしれません、やってみるしかないので出品したのですが、思いの外(絵よりも?)評判を

とり、気を良くしております。

 

私は人形の材料が体に合わなくてドクターストップがかかり、人形制作を断念したいきさつがありますが、今回我が会に出品した事で、ふんぎりがついた様です。

自己の絵と人形を客観的に見る事で、これからはより自己の思いで

絵画制作に打ち込める気がします。

 

 

 

                        小澤清人

 

 

 

***2016年 10月10日***            No63

 

 

 

         「塗師祥一郎先生の事」

 

 

先月の末 朝早く、吉田武功氏から

「今、先生が亡くなられた」と塗師先生の訃報の電話が入った。

 

私が初めて先生のお宅に、モリエールの木炭デッサンを持って

教えを請いに伺ったのは、高校2年生の時でした。

 

それから、30才になるまで先生のお宅に行き、不詳の弟子として

色々とお世話になり、迷惑もおかけしました。

 

ある時、売れっ子の先生は、アトリエで絵を描き、先輩と私は

「キミ達、僕が眠らない様に後ろで酒を飲みながら居てくれないか?」

と云われ、先輩と私はよくアトリエの後ろのソファーで

先生が描くのを見ながら酒を飲んだものでした。

 

それから20年ぐらい後に父がオークションで「先生の絵を落とした」と私に見せたのです。

それは「野佛」(のぼとけ)と題した8号の絵で、

なんと先生のアトリエで先輩と二人で酒を飲みながら見ていた時に

先生が描いていた作品でした。

私は父からその作品を譲ってもらい、去年先生に新しい額とシールをお願いしたいと依頼すると、快く先生は受けてくれました。

 

それから一年足らずで先生はお亡くなりになりました。

 

私に云わせると、戦国大名の様な方で、刀折れ矢尽きて

見事に他界していった・・・先生は最期にまた一つ

人生というものを私に教えてくれたのです。

 

 

                       小澤清人

 

 

 

 

「野 佛」  F8号           小澤清人所蔵
「野 佛」  F8号           小澤清人所蔵

***2016年 6月24日***            No62

 

 

          「アナベルの事」

 

 

 

今年も庭にアナベルが咲いている。

 

 

今や満開である。

 

だけど、何故か描く気にならない。

ここ十年ぐらい薔薇が終る頃、

アナベルが咲き、壺に投げ入れ

描いたものである。

なぜだろうか?

昨年の今頃から白いシルクサテンの上に油彩で描くようになった。

その画面のせいかもしれない。

私にとってこの画面とアナベルが合わない様な気がするのです。

絹であっても、やや色が付いた画面だと、真白い毬の様なアナベルの

花は浮き立つのだが、どうも白い光沢のあるシルクサテンとは、

相性が合わないようだ。

無理して描くのをやめて今に至っている。

 

若い頃は、いたたまれなくなり無理しても描いたのだろうが、

今となっては描ける様になるまで、ジッと待っているのが賢明だと

思う様になっている。

「待つ」と云うのも、充実した絵を描くためには必要な事のように

今は思うようになっている。

でも、自分に対する言い訳のような気もしている。

 

そんなことを思いながら今は

メインクーンの猫の絵を描き進めている。

 

 

                        小澤清人

 

 

©小澤清人                               画像をクリックしますと拡大表示されます