悪 夢 の 事
2009年の2月の夜、突然大家さんが来て
「出ていってほしい」と云われた。
私は”寝耳に水”でパニックになってしまった。
その日から毎日見る夢がこうである。
吉祥寺に行き帰り道、道に迷ってしまう。車で行ったのだが
なぜか歩いている。
裏道なので細くて雨でぬかるんでいて思うように前に歩けないので
ある。
どうやら保谷あたりを歩いているのだが、前を見ると崩れかけた3階建くらいの昔のあばら家がずーっと先まで続いている。
人はどこにも見当たらず、ゴミの中を歩いているようだ。早く自宅へ
帰りたいので駅へ行くとその駅からは私の家のある駅には
行けないのである。
ようやく氷川参道と思われるところまで来るが参道の両側の家は
崩れかけた廃屋なのです。参道を歩いて行き我が家の方へ左折すると、となりの家はちゃんとあるのに、私の家はないのです。
たしかにそこなのですが、家があった跡は確かにあるのですが、
よく見るとそこは崖の上で、とうてい人が住める様なところでは
ありません。
下には大きな川が流れているのです。
「どうしよう!」と思った時に目が覚めるのです。
こんな夢は私にとって2度と見たくない夢なのです。
小澤 清人
オランダ壺の事
20才の頃、デパートのオープンの骨董市でオランダ壺を買った。
かなり無理をして、その頃の新入社員の給料の2~3ヶ月分の価格だった様に思う。
ものは、デルフト窯の物で、デルフトにしては焼きはしっかりとして、絵付けがとても気に入ったのである。
今となってみれば、何枚ものモデルにしたので元はとっている。
私が初めて個展をした時に、案内状に使った絵が「オランダ壺の華」という20号の絵だったと記憶している。その後35年を経て同じ「オランダ壺の華」というS30号の絵を描いている。
一人の人間の持つイマジネーションとは時が経っても根本的にはあまり変わり様がないように思う。
小澤清人
エンゼルの事 その4
絵は、ほぼ完成したのだが、額が問題である。
絹本に描いた絵は一見、日本画のようにみえる。したがって洋画の額では、
何となくピタリとこないのである。
かと云ってマットを切った水彩ぶちでは芸がなさすぎるので、以前から思い描いていた小薔薇のプリントの布地を張ったマットを入れ、額縁を作ってもらう事にした。
絹本もこの小薔薇のプリントも、それぞれに自己主張が強いので、弘雅堂の親方は額縁の色味にかなりの苦労をされた様である。
ひとまずエンゼルの絵はすべて完成したが、絹本の仕事はこれから色々な面で
展開して行けそうな気がする。
小澤 清人
レダの事
今から36年程前、第2回現代童画展に私は100号の「レダ」の絵を
3点出品して、見事落選してしまいました。
事の次第は、会の審査委員長より手紙を頂き、
我が会は発足して2回目で貴殿の絵は悪くはないが
今の我が会にはどうも・・・。
と、出品料6000円が同封されていた。
その時分色々と絵で悩んでいた私はそれに感動をおぼえ、
「ヨシ!来年は自分なりに現代童画会に合う様な絵を描いてやろう!」と
決めたのである。
そして今、第39回現代童画展に「レダ」の絵を出品する事となった。
最初に戻ったのか?
芸がないのか?
変わりばえがしないのか?
人生はとても不思議なものである。
小澤清人
個展の事
毎年9月は、地元で1ヶ月間個展を開催する事がこの21年間ずっと続いている。
長い様だがアッと云う間の様でもある。
1年の十二分の一を、この個展会場で過ごす。
お客様がいない時は、自己を色々と反省してみたり、小さなデッサンを描いてみたり、本を読んでみたり、なかなか有意義なのである。
この時期は期間中1~2度は台風があり、会場の前の道が雨で川の様に水が流れる事もある。すぐそばの大宮公園の白鳥の池が溢れそうになる事もある。
そして、お彼岸が過ぎる頃は夏服ではやや肌寒い様で、創作意欲も少しづつ増してくる。
11月には本展もあるので、本展の出品作品も気になってきてラストスパートをかけなければならない。
私にとって9月の個展は新たなスタートの時期なのかもしれない。
小澤清人
エンゼルの事 その3
肌の調子がなかなか今一つのようで、何回も重ねて描いていくが、絹本の場合
変化していくのがほんの少しずつで、焦ると良くないようだ。
幼子の肌合い、やわらかさが出ると良いのだが・・・。
でも少しずつ塗り重ねるに従って出てきているようだ。
絹本自体の色合いが黄味が強いので、エンゼルの肌が赤く見えるから、少しずつ黄味を強めに重ねてみる。
絹本の空間と調子が合ってきたようだ。
エンゼルと空間の微妙な調子が出ると、立体感が出てくる様である。
小澤 清人
エンゼルの事 その2
描き進むうちに絹本の場合、輪郭線が必要になってくる。
あまり輪郭線が強いと硬くなるが、程良いものはとても効果的である。
心臓を縫っているエンゼルの後方に弓を入れてみる。これで奥行きの効果が出ると良いのだが・・・。
同様に後ろ向きのエンゼルの足元に薔薇一輪をおいてみた。
3人のエンゼル共に、床に接するところ(足もと)に影を微妙に入れてみた。
エンゼルの羽が、以外とむずかしい事に気がつく。
小澤 清人
エンゼルの事 その1
古絹が手に入ったので、裏打ちをして板に張ってもらいP30号が3枚でき上がったのでエンゼルを描く事にした。
幼いエンゼルを一人ずつ3枚に描いてみた。
絹は裏打ちをすると生地の腰と調子がちょっと違ってくるので、困る場合がある。
今回も板に張ってもらった時、だいぶニュアンスが変わっていた。
それを考えながらデッサンを進めていく。
画面の雰囲気に合わせた色合いに描き上げていく必要がある。
小澤清人
個展の事
5月の終わりから6月の始めにかけての1週間、銀座で個展を開催した。
初日が始まってみると、瞬く間に1週間が過ぎて行き、今は一息ついている。
始まる前は銀座なのであっちへ行ったりこっちへ行ったりしてみようと思って
いたが、何一つ現実にはできなかった。
それぐらい忙しく、今の私の体力がおぼつかなかった様である。
しかし、毎日通うだけで気分が良いのです。
それは、銀座という町の持っている雰囲気なのかも知れない。
多くのお客様、友人などが毎日来てくれて、一日一日がとても充実していた。
今さらながら個展を開催して良かったと思う。
一つ、心残りは、「ギャラリーあづま」の2~3軒手前にあるトリコロール本店に1度も行けなかった事である。
次会はゆっくりと1杯のコーヒーを飲みたいものである。
小澤清人
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薔薇の事
5月9日、久しぶりにピエール・ド・ロンサールが手に入ったので、
翌日アンティークのグラスに入れて描き始めてみた。
普段は自分の記憶に頼り、より良い薔薇の形を思い描いているので、
目の当たりにした薔薇は、とても新鮮で又自然である。
そのまま写生をすれば良いのである。
とても気持ちが良い。
自然を描くという事が、これほど気持ちよく思うのは最近の事である。遅まきながら何か自分の中で、”絵を描く”という事が少し変化してきている様に思う。
小澤清人
©小澤清人
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個展の事
久しぶりの東京での個展である、というよりも銀座の個展は2度目である。
あと40~50日という時は、とても落ち着かない。
でき上がっている絵をあっちこっち出して見ると”これは駄目だ!”と
また額から外し、描き込んでいる。そんな事の毎日である。
しかし充実しているといえば、そうかもしれない。
個展でもなければ、完成していると思い込んでいる絵を出して
チェックはしないだろう。絵をタトウから出して見ると当時の事(思い)が
リアルによみがえってくる。
良い悪いは別にして今の自分と少し異なっていて、ある時はその絵の
上に今の自分を描き込んでいく。
大概はそれで納得して、また額に戻す・・・。
すると少し安心するのである。。
思いついて一気に書き上げ、個展に出してすぐに売れていく絵、
何年もアトリエにあり、個展の度に思いつき描き直して、長年手元にある絵、どちらが本当に良い絵なのか?・・・。
本人にも死ぬまで(死んでも)わからないのだろう。
小澤 清人
個展の詳しいご案内は「小澤清人 お知らせ」のページをご覧ください
絹本に描く事 その2
キャンバスに描くのと違い、油絵具の乾きも良いので、
せっかちな私にとっては、良い様な、悪い様な。
実はまだ慣れていないのである。
描き進めていくと複雑に調子がつき、どうにもこうにもならなくなった時、
絵の具の生の色がかなり効果的に活きるのに気が付いた。
キャンバスの時も同様ではあるが、絹本の場合は特に私の求めている
効果が出る様である。
だいぶ色々な部分を描き込んで、質感を感じる様になってきたので、
右上にレオン・カシミール・ブリュとインデゴブルーで文字を書き込んでみた。
次の日になると、もう少し描き込んだ文字が強い方が良いと思い重ね塗りを
した。すると西洋人形自体が弱く感じて質感を求めて描き込む・・・。
アンティークドール自体、古色の味も加味され、重厚感があるので
果てしなく描き込めるのである。
これまで と思うとやめて、次の日にはまた描き込む・・・2~3度繰り返して
いくと、 かなり実在感が出てきたので、サインを描き込み、印を押し完成とした。
次の日見ると手の表情があまいようなので描き込んでみると、
顔と共鳴してきたようである。
これで完成・・・かな ?
小澤清人
「その1」の画像から引き続き、1枚の絵を左から右へ、描き進めている過程を掲載しています。
画像をクリックしますと大きく表示されます。 ©小澤清人
絹本に描く事 その1
1年ほど前から古い絹に描く様になった。
それは知人の呉服屋の旦那から帯に絵を描く様に依頼されてからの事である。(No2参照)
日本画は絹地に描くが、洋画は普通キャンバス(麻)に描く、ためしに古色のついた古い絹に油彩で描いてみると、私の求めているニュアンスがとても良く表現される様で、花・静物・猫そして人形などを描いている。
去年30号程の古いサテンの絹地が手に入ったので裏打ちしてもらい、板にとめて人形を描いたが、厚塗りになった所がやや縮んで、額装の時に一部が波打ってしまった・・・。
今回、古絹(P40号)が手に入ったので、裏打ちしてパネル張りにしてもらった。
これに私のコレクションのブリュー・ジュン14号を描く事にした。時間をかけて、
じっくりと楽しみながら描き進めていきたいと思っている。
絹地をそのまま活かしたいと思った。最初は緊張して失敗を恐れていたが、
描き進めていくうちにデッサンの狂いの直しや、下描きの線なども、ひとつの
調子として思える様になってきました。
そして油彩用キャンバスの時と違ってやわらかさが出て、しかもいろいろな調子が一つの画面に表現できる様な気がしてきました。
小澤清人
1枚の絵を左から右へ、描き進めている過程を掲載しています。
画像をクリックしますと大きく表示されます。 ©小澤清人
宝物の事
この西洋人形は、1885年頃 フランスの人形作家レオン・カシミール・ブリュ(※)が制作したもので、私の宝物でもあります。
この人形が履いている”赤い靴”は25年程前、ロンドンのアンティーク市で、
この人形が私の手に入る前に買い求めていたもので、当時はこの靴が
履けるような ”良い子”が手に入るようにと思っていたが・・・。
それから17年後、この西洋人形は我がアトリエに来たのである。
小澤清人
(※)レオン・カシミール・ブリュ(Leon Casimir bru)
ブリュ工房の創始者。1837年に生まれ、20代のころ、パリへ上京し、1866年にサン・ドニ(St denis)にBru Jeune et Cieという会社を設立した。翌1867年に社名をBru Jeuneとしている。このJeuneとは末っ子という意味で、レオンがブリュ家の三男であることに起因していると思われる。
万年筆の事
20年も前に、ロンドンの地下鉄ノッティングヒルからほど近い
ポートベローのアンティーク市に早朝でかけた。
入口近くの店でテディベアーを買い、ふとケースの中を見ると、
マロングリーンの可愛らしい 女持ち の万年筆が目についた。
厚紙でできた赤いBOX付きの1950年代モンブラン、”モンテ・ローザ”
である。
最近になって思いつき、この万年筆でデッサンを描き始めたが、
ある日突然、ペン先の片方がかけてしまい使用不能になってしまった。
あきらめきれず、銀座にあるモンブランに持って行ってみると・・・
「もうこれは直りません、しかしアンティークでとても美しいので、このまま
保管されると良いと思います」と若いスタッフに云われ、そんなものかと
骨董マニアの友人に話すと、「これ、直りますよ」と云われ、堀切にある
職人さんを教えてもらった。
翌日、尋ねてみると小さなしもた屋で、初老の品のいい紳士が出てきて
「これは直ります」と云い、1週間後、見事に万年筆は復活したのである。
銀座のメインストリートに大きな自社ビルをかまえる世界的な万年筆の
老舗では直せず、堀切の小さな万年筆工房で直るというのが「今」の
現実なのである。
小澤清人
獅子頭の事
先年から始めた画塾 ポルトルージュ KIYONDOで、画塾生に描かせている
モデルに”獅子頭”がある。
これは15年程前、千住だか三鷹の市だかで気に入って買い求めたものである。
幕末から明治の物で、なかなか味があり 私も一度モデルにして0号の油彩画に
した事がある。
画塾生が何人かこれを描いているのを端で見ていると私もまた描いてみたくなり、12月ポルトルージュKIYONDO最後の日、家に持ち帰ってみた。
神田の弘雅堂さんから買って預けてある額ぶちを思い出し、これに合わせて描いてみようと描き始め今日に至っている。
本日は雨であるが、でき上がった絹本に油彩の”獅子頭”2点を持って弘雅堂さんへ行くつもりである。
今日は上野で降り、混雑しているだろうアメ横をぶらぶらしながら・・・・。
帰りは弘雅堂の若ダンナとビヤホールで、今年最後の”カンパイ”をやれればと思っている。
12月30日。
小澤清人
趣味の作品展の事
私の住んでいる高鼻町1丁目では、秋の深まる今頃、毎年氷川参道沿いにある
市立図書館に於いて「趣味の作品展」が開かれる。
この町内は昔から芸術的志向が強く、文化人と云われる人が多く住まう所である。
ある時から私もこの展覧会に参加させていただいています。
私の師である塗師祥一郎先生と1年に1度だけ、この展覧会で
肩を並べさせていただいております。
いつも先生の絵に負けないようにと思い自分なりに”より良い絵”を
出品しています。
がいつも、負けてしまう様です。
今年は我が会に出品した内の一作「赤い靴」を出品しようと思っている。
小澤清人
38回 本展の絵の事
今年の出品作は3年越しの絵となり、30号3点の出品となった。
2点は3年前から描き始めており、1点は去年手に入れた西洋人形を
描いたものである。
今年の始め春季展に発表した8号の”抱き人形”の絵で
バックのブルーが額と人形、両方とも効果的に生かしている事を発見し、
3点をブルーのバックにして、表現してみました。
我が現代童画展は色々な面で個々の自己表現が自由であることを、
私なりに訴えたかった事もある。
絵の大きさもそれぞれが自分に合ったもので良いと思う。
これからの美術団体はそうありたい。時流を見据え、これからの若い作家が魅力を感じる会でありたいと思う。
猫の事
個展の時に「猫を飼われているんですか?」と よく聞かれる。
私は小学校低学年の頃までは、3回程 猫を飼った事がある。
ところが、交通事故にあって死んだり、かけてやった蚤取り粉をなめて、
一晩中苦しんで死んだり、病死したり、情がうつっただけ、悲しみも大きく、
生き物は嫌だと思い、それからは飼わないようにしている。
15年程前、夜飲みに行こうとして玄関を出ると、白い綺麗な子猫が泣いている、
首には赤い首輪をしていた。
あまりかわいいので、アトリエに入れて、私は飲みに行って帰ってくると
なんとキャンバスで爪をとがれてしまっていた。
幸いにも次の日、白い子猫の”飼い主”も見つかり、ホッとして、また夜飲みに
行こうと家を出ると「ニャー」と子猫が親しげに近づいて来るので、無視して
足早で通り過ぎたが、なんとも悲しい。
”もう猫は飼わない” 私の描く猫は、猫の皮をかぶった私自身の様である。
小澤清人
春愁の事
春、桜が散り始める満開の中、一人の和服の女性が立っている、の図である。
何で思いついたのか、公園に満開の桜をスケッチに行ってみた。
見上げると、どこから描いてよいやら、頭がくらくらするばかりで、
まるで酒も飲んでないのに酔っぱらってしまった。
この感じが表現できればよいのだが・・・と、その時は思った。
近くのベンチに腰をおろしボーッと1時間が過ぎ、やがてベンチに横になり
眠ったようなきがする。
女性は古風な長い羽織を着て、黒いフリンジが付いたベルベットのショールを
まとっていて、所々桜の花びらが落ちてまとわっている。
どこから来たのか、どこを見ているのかわからないが、女性の後ろには
茶店の代わりに、何故かロンドンのチェルシーあたりの建物が
おぼろげに見えている。
女性を見るととても懐かしく、私が生まれる前から知っている
母のような気がして来た。
翌日、私はアトリエの大きなキャンバスに、その女性を描き始めた。
そして今、大宮区役所の回廊にその女性は満開の桜の中に立っている。
小澤清人
「春愁」は常設展示ご案内のページでご覧いただけます
現代童画展の事
9月の個展が終わるとすぐに本展(現代童画展)が毎年やってくる。
今年はリニューアルされた都美館(東京都美術館)に戻っての初めての
展覧会となり、我が会が創立より38回目になる。
ナイーブアートを掲げて、絵描き・イラストレーター・絵本作家・デザイナー
などが集結して、幅の広い表現で夢のある作品を発表する事をめざした会である。
時流を見据えて、我が会だからできる事をめざして頑張らねばならないと
思いつつ、長く行動を共にした仲間とのコミニュケーションの大切さを
強く感じており、我が会が今後進むべき共通したところ これを模索しつつ
これからのナイーブアートを作り上げていかなければならないと思います。
これからの、若い表現者たちが夢をもって集まってこられるような、また
自分たちの時代を自由に力一杯表現できる様な会でありたい。
小澤清人
現代童画展の詳しいご案内は「小澤清人お知らせ」のページでご覧いただけます
髑髏の事
15年程前、個展会場で”サライ”と云う雑誌を見ていて、その中に
「サントリービール工場」なる記事があって、その中の小さな写真に
なんと髑髏のビールジョッキが写されていて、よく見るととても美しい形で
魅力的だ。
いっぺんに気に入ってしまい虫眼鏡でジッと見るとやはり良い物のようだ。
その年の旅行から私の”髑髏ジョッキを探す事”が始まった。
最初のうちはミュンヘンにあるとばかり思い、ミュンヘンの骨董屋を
くまなく探したが、新しい時代のコピーと思われるものはたくさんあるのだが、
本物がないのである。
何年か探しまわっている7~8年後に、パリのクリニャンクールの中の
マルシェビロンと云う高級骨董を扱っている通りの中に、ミュンヘンから
出稼ぎに来ていたジョッキ専門の骨董屋の店があり、ふとウィンドウを
のぞくと本物の髑髏のジョッキが置いてあった。
しかし店は閉められていたので、その日は夜も眠れなく・・・。
翌日来てみると店は開いていたが、ウィンドウのジョッキは消えていたので、
店に入り店主らしき男に尋ねると、よほど私が焦っていたと見えて
「まぁまぁ・・・」と云いながら、奥から髑髏のジョッキを出してきた。
その年は良い人形が全く買えなかったので、髑髏のジョッキは無事
私のモデルとして今アトリエでモデルの出番を待っている。
ある日の早朝、ロンドンのノッティングヒルの地下鉄を降り、
ポートベローの骨董市に向かった。
寒い朝で底冷えがしたが、気持ちはとても昂っていた。
ロンドンで一番有名なこの骨董市は数え切れない業者がひしめきあっている。
入口を入ってほどなくの店のウィンドウの中に、子どもの握り拳程の銀製の
髑髏の”ブンチンらしき物”が目にとまり、店主に出して見せてくれと云うと、
うやうやしく私にそれを出しながらゼスチャーを交えながら説明し始めた。
なんとその”ブンチンらしき物”は”枕時計”であった。
手に取ってよくみると、とても美しい形で、しかも髑髏の上の部分が
フタになっていて、それを開けると中はホウロウの曲面になった文字盤で
エナメルで繊細な文字が書かれてあり、その文字盤を上にあげると、
裏は手作りの歯車がみっしりと美しく組まれた機械仕掛けが見られ
その脇には花文字で”PARIS”と彫られてあった。
店主に云わせると、19世紀半ばのフランス製らしい。
思わずいくらか?と聞くと、かなりの値段であり、さもありなんと少し
まけさせ買い取り、歩きながらどうやって絵にしようか・・・と考えている。
これは絵描きの”性”かな?と一人苦笑いをしてしまった。
小澤清人
住まいの事
私はここに、20才の頃から40年間住んでいる。
私の絵と共に、私の青春がここには詰まっている。
ボロボロの時代おくれで、まわりの家とはかけはなれているが、私にとっては、
自分のすべてが詰まっている。
小さな裏庭にはアジサイや薔薇が咲き、玄関わきには少しずつ成長した
ピラカンサスが秋にはかわいい”赤い実”をつける。
これらは、私の歴史と共に毎年絵に描き写されて、ある絵は嫁に行き、
又ある絵はアトリエでねむっている。
古い一戸建て、小さい家が3つ並んで、私はそこを行ったり来たりしながら、
絵を描きながら生活をしている。
25年程前から人形を集める様になり、それも私の良いモデルとして同居する様になり、今では数え切れない人数に増幅している。
したがって、絵と人形と古い家具が、私の全てなのである。
小澤清人
「エンゼルの事」
かなり若い頃から、エンゼルをモチーフに描いている。
幼年のエンゼル、少年のエンゼル、青年のエンゼル・・・それぞれが
私にとってはおもしろい。
大きさもそれぞれで、ミニチュアールから120号まで。
極小のものは 3cm×5cmのものである。
銀座の人形館”エンジェルドールズ”に飾ってある。
小さなものは好きであるが、歳と共に近くが見え難く、だんだん描けなくなりさみしい限りである。
又 私は額に絵付けをするクセがあり、エンゼルの絵の中にもいくつか
額の絵付けをした作品がある。
”額も絵のうち”で、中の絵をより引き立たせる為でもある。
額の四隅に、春夏秋冬の花を描いたものもあり、時の流れを感じられれば良いと思う。
額に絵付けをする事は、額職人との意思が通じていないとできるものではない。
私は良い事に、良い額職人と縁があり、良いお付き合いをさせてもらっている。
小澤清人
「西川比呂夫先生の事」
西川比呂夫先生は、私より二まわり上の“寅”の年の生まれで、
私にとっては父の様な存在でありました。 私が第3回現代童画展に
初入選した頃は、私にとって我が会の創立会員の偉い先生の一人に
思われました。 そして、第19回本展の頃、西川先生が第3代
現代童画会会長に就任され、先生と会の事で行動を共にさせて頂く事が多くなりました。
我が会は毎年地方展があり、関西展・九州展・坂出展とお供をさせて
頂き、その頃が私にとって先生とのコミュニケーションがとれた
最も楽しい時期だったと思います。
深川生まれの気の優しい方で、いつも私に気を遣って頂くので、
私は自然に甘えていた様な気がします。 九州展では帰りがけ、食事に招待されるのですが、「僕はあまり飲まないから、キミが私の代わりに飲みなさい」と云ってくれるので、私は調子に乗って飲み過ぎて帰りの機内で、ベラベラと先生に大きな声で話しかけ「キミ、だいぶ酔っぱらっているネ」などと、横目で睨まれたものでした。 又 他界される何年か前に神戸に出張のお供をさせていただいた時は「僕はあまり早く歩けないのだよ」と云っておられ、私が先生の荷物を持って先に歩いて行き、しばらくして後ろを見ると、だいぶ後方を歩いてこられる様でした。今にしてみれば、あの頃から体がお辛かったのではと思います。
先生が他界される前日、私は習志野の病院にうかがい、先生との最後の会話をしましたが、私は涙ばかりで、一言も話す事ができず、先生は私に「会の方はどうですか?」とだけ小さく云われました。
これが先生の私がお聞きした最後の言葉でした。
何はともあれ、先生は私にとって“人生の師”として
御指導していただき、一つ事があるごとに的確なアドバイスを
事細やかに云っていただいた、そんな先生の優しさに
心から感謝しております。
小澤清人
「個展」
8月31日搬入、私が行動し始めるとまた 雨が降り出した。
助っ人の中島氏に「小澤さん、動かないでください!」と云われる。 昔から「雨男」の私なのである。 ―しかしながら、無事 搬入も終わり、個展が始まりました― 毎年の事ながら初日は慣れるのにとても時間がかかる。1ヶ月の長丁場、どんな事がおきるやら・・・。
会場にて首を長~くして お待ちしております
小澤清人
「マリーちゃんの事」
私は人物が好きで、若い頃から人物にこだわって人物画を描いていました。
その人の持っている その人にしかない におい の様なものが
描きたいと 思いました。したがって、私にとって最も好ましいモデルとの出会いが必要であります。
とても難しい事で、20代後半にスランプが来ました。 29歳の時、
機会があってギリシャに行く事になり、ギリシャ人のある家庭に、
2ヶ月程食客で厄介になりました。日本の裏側で、生活環境も全く違い人間の風貌はさらに真逆の様であります。
私にとっては苦労もありましたが、舞台のソデから異なった民族の“生き様”を見ると云う、貴重な体験をさせていただきました。
日本に帰って1年程経った頃 会の友人(吉田キミコ氏)に依頼され
、カフェのキャラクターを考えました。 それが“マリーちゃん”です。 頭に大きな赤いリボンを付け、暗い大きな目でこちらをジッと見つめている少女なのです。
カフェの名前は「マリーズチェアー」となりました。
店内は西洋アンティークの家具でそろえて、店の主人公は
“マリーちゃん”なのです。これより少しの間 私の絵には、
マリーちゃんがたびたび登場する様になり、私の心の中にある人物像の一つなのではと思いました。 今 思いますと、宇野亜喜良先生の描く少女の可愛いさに、かなり影響されている様です。 9月の個展には、
30年前に描いた“マリーちゃん”の絵を何点か発表しようと
思っております。
小澤 清人
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⒞小澤清人
去年、友人の呉服店のご主人に「帯に絵を描いてもらいたい」
と云われ引き受けました。 しかも“西洋人形”が良いとの事で、
私にとってはモチーフの一つなので、これはいいと思い2本描かせてもらいました。
それがきっかけとなり、今、私は絹地(絹本)に、油彩で絵を描いております。
“西洋人形”・“花”・“猫”・“静物”など、私のいつものモチーフを描きますが、
キャンバスと違って、最初はとても描き難く苦労しました。
でも、慣れてくると日本画の様な、しっとりとした絵肌がとても、
私には合っているような気がします。
私は、古い絹地を探して、何となく味のあるものを裏打ちしてもらい、
その上に油彩で描きます。西洋人形の肌の質感や猫の毛の質感などは、
麻のキャンバスよりも表現できる様です。
9月の個展は、この新作が発表できると思います。
小澤清人
9月の個展のご案内は「小澤清人 お知らせ」のページをご覧ください
ポルトルージュKIYONDOが始まって、早いもので1年が経ちました。
思えば見切り発車で、これから絵画教室を始めるとは夢にも思いませんでした。 始めてみると、教えると云う事は学ぶ事で、メンバーの一人一人から学ぶ事が多い1年でした。
そもそも絵を描くと云う事は“一人遊び”の様なもので、人にそれをご教授する事は、なかなか伝わりにくいものの様です。
しかしながら、少しずつ自分の気持ちを他に伝える事に 慣れてくと、 とても楽しくなってきます。私の思いを云う為に、私のコレクションの人形達がモデルとして活躍して おります。 嫌々人形を描いている方もおります、元々その世界が好きでハマっている人もいます。どちらが良いかはまだわかりません。どちらにしても絵を通して自分を表現する、自己表現はとてもおもしろい世界です。
長い間、絵描きをやってきて絵を通して自己表現ができる事は私にとって素晴らしい生きがいと思っております。
今後も皆様と一緒に楽しく描いてゆければと強く希望しております。
小澤清人